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【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

高島俊男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』文春文庫、1998年

2010-11-10 00:30:38 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
               本が好き、悪口言うのはもっと好き (文春文庫)
 第11回講談社エッセイ賞受賞の評論集です。著者は、本書編集にたずさわった小宮久美子さんの力が甚大で、いいエッセイ集になったというようなことを書いています。

 それはともあれ、著者は中国文学者で、1938年生まれ。本書からいろいろなことを学びました。

 「欠伸」「呆然(茫然)」「専家」「降灰(コウカイ)」「子息」「指摘」「母語」などの蘊蓄。徹底的な字義詮索、コダワリを見せています。

 書評も痛快で面白いです。(『狐の書評』本の雑誌社、みなもと太郎『風雲児たち①~⑳』潮出版社、奥本大三郎『虫のゐどころ』新潮社、若桑みどり『絵画を読む』日本出版協会、久保忠夫『三十五のことばに関する七つの章』大修館書店、長谷川真理子『オスとメス=性の不思議』講談社現代新書、高橋秀美『TOKYO外国人裁判』平凡社、石川英輔『泉光院江戸旅日記』講談社、向井敏『表現とは何か』文藝春秋)

 「湖辺萬筆」の「つかまったのが何より証拠」は怖い話です。電車の切符を買うときのふとした出来事で、個室に連れ込まれ、尋問された状況が詳しく説明され、自白にともなう「冤罪」というのもこういうことで成立してしまうのかと戦慄を覚えます。

 「ネアカ李白とナクラ杜甫」も両者の対照的な育ち、人格、生き方、しかしお互いに尊重しあっていたということが分り易く解説されていました。

 「回やその楽を改めず」では碩学の狩野享吉の話ですが、露伴、漱石などとの人間関係が詳らかにされていて興味尽きません。

 本書の白眉は、今では使われなくなってしまった「支那」という言葉がもともとは差別用語ではないことを論じた「『支那』は悪いことばだろうか」です。差別用語でないどころか、魯迅も、日本の代表的中国研究者であった吉川幸次郎も好んで使っていたことが明らかにされ、しかしある時からこの言葉に差別観が刷り込まれ、以来不幸な成行きに身をまかせ、死語になってしまったことが追跡されています。あわせて中国という言葉の曖昧さにも言及があります。

 著者のように自由闊達に、権威から遠いところで仕事ができる人は羨ましいですね。

清川妙『出会いのときめき』清流出版、2002年

2010-09-23 22:20:46 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
              
            
  品のよさとはこのようなものなのかもしれません。

 「この本の中に,なによりもこめたかったのは年を重ねて,いまをよく生きていくことの愉しさである」と,著者は書いています(p.202)。歌(著者は「万葉集」研究の専門家)と花を愛でる心持が,この人の人生に彩りをそえています。好かれる人に違いありません。

 書くことが本当に生きがいなのだから,ケストナーの言葉,本とは「建てたばかりのことばの家」に気づき,引用できるのだろうと思いました。そして著者の心の優しい在り方が,いい人との出会いを育んだのではないでしょうか。

 「鈴蘭」について書かれたところでは,5月1日がフランスで鈴蘭の日で,この日パリでは森で摘んだ鈴蘭が売られるとありましたが,映画「クリクリのいた夏」のワンシーンを思い出しました。

 梅の花夢(いめ)に語らくみやびたる花と我(あ)れ思(も)う酒に浮かべこそ[旅人](p.145)。
               
 

『ノーマ・フィールドは語る-戦後・文学・希望-』岩波ブックレット、2010年

2010-08-21 00:15:48 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
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  『天皇の逝く国で』『祖母のくに』『ヘンな子じゃないもん』『源氏物語、<あこがれ>の輝き』(以上、みすず書房)、『小林多喜二-21世紀にどう読むか』(岩波書店)を著したノーマ・フィールドさんのインタビュー、聞き手は岩崎稔さん(東京外国語大学)、成田龍一さん(日本女子大学)。

 このインタビューを読んで、上記の本を読みたくなりました。ノーマさんの発想が非常にしなやかだからです。もの考え方が人生、文化のそれぞれがもつ異質なものを咀嚼しながら、しかしひとつのところに向かっていくということが伝わってくるからです。

 彼女のそういった哲学は、アメリカの軍人と日本人女性の子ということ、日本のアメリカンスクールに通ったこと、そのなかで「世渡り術」を発揮したこと、それゆえの学校生活での表現しがたい違和感、自らが選んだ屈辱的体験、アメリカの大学とフランスの大学で学んだこと、ないまぜにとなり屈折した反日感情と反米感情があたっといこと、そうしたさまざま思想体験に由来するのです。

 溜められた想い、感情が、昭和天皇の死にゆく過程での何人かの日本人との遭遇、知らなかった歴史との出会い、忌避していた沖縄に向き合う決意をしたプロセスのなかで自らの思想、哲学が育つ、そのことがよくわかります。

 民主主義、階級性、ナショナル・アイデンティティ、戦争、差別と貧困といった社会科学の用語が、自らの体験、こなれた哲学の用語として紡ぎだされています。

 彼女は例えば「謝罪(従軍慰安婦問題などの)」を問題化する時に、次のように思うのです、「壊された人生に対して、ひとはなにができるのだろう、と切実に考えだしました」(p.39)、「補償をふくむ法的処置や政策的対応が絶対必要ですが、謝罪はそれと重なりながらもその領域をはみ出るものですね。取り返しのつかないことが起こったとき、どうしたら日常性が回復できるのだろうか。そこで謝罪という儀礼の役割、つまりことばと身体を要する非日常的な行為につて考えようとしたのですが、性的暴力は多面的な悲劇になりがちです。・・・それはまた謝罪の域を超えるものでしょう、というか謝罪とは歴史認識や慣習、伝統的価値観とさまざまに関わる課題なんですね」と(pp.42-43)。

 最後にノーマさんは言っています、「お二人の質問に触発されて、私のなかでモヤモヤしているものを少しは意識化できたような気がします」と(p.63)。お二人の質問の姿勢がよかったのでしょう。

吉行和子『兄・淳之介とわたし』潮出版社、1995年

2010-08-16 00:20:11 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
表紙と裏表紙にパジャマの上下の絵があります。この本を読むと意味がわかります。

 作家、吉行淳之介はパジャマが似合う人だったというのです。この本の「お兄さんのパジャマ」にそのことが書いてあります。

 人間として照れ屋で普通の人だった、普段着の淳之介が描かれています。そして著者と母のあぐりと妹の理恵にみんなに大切にされていた淳之介。しかし、本書の著者の和子さんの『ひとり語り』にもその記述がありましたが、家族みんなで食卓を囲む、そして「いただきます」と「ごちそうさま」を言うという習慣はなかったとのことです。NHKの朝ドラでそういう場面があって、「あー、そいうものなのか」と感慨深かったらしいです。

 「第一章:兄・淳之介と私」では淳之介の等身大の人柄が、妹でなければならない淳之介が登場しています。「第二章:交友そして私の生き方」では冨士真奈美さん、岸田今日子さんとの仲よし三羽ガラスの行動、俳句が面白いです。

 「第三章:旅行でリフレッシュ」。そう、著者は旅行が趣味なのです。インド、モスクワ、スペイン、香港、ベトナム、ボヘミヤ、「旅は最高のバケーション」というわけです。

 肩の凝らないエッセイ集です。

 1994年7月26日に、病で突然いなくなってしまった兄への想いが伝わってきます。

米沢冨美子『まず歩きだそう-女性物理学者として生きる』岩波ジュニア新書、2009年

2010-08-12 00:10:39 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
            
          


 科学の世界で女性研究者は少ないし、その道にろいろな障害があり、その地位は正当に評価されていません。そのような環境のなかで物性物理の領域で記念碑的な業績を生み出してきた著者が若い読者に語りかけています。

 本書の最後で、著者は次のメッセージを若い人に贈っています。①自分の能力に限界を引かない、②まず歩きだす、③めげない、④優先順位をつける、⑤集中力で勝負する、です。

 自らの研究歴、人生経験にもとづくメッセージなので、説得力があります。それらのディテールは本書全体で具体的に示されています。

 執筆の動機は3つあるそうです。第一は物理の楽しさを伝えたいということ、第二は若い女性に自然科学者となるためのローモデルを提供すること、第三は個人的に自身の歩んできた道を振り返り、整理するということだと言っています。

 著者は子どもの頃から宇宙の果てに疑問をもったり、水と油を包括的捉えるものを考えたり、疑問多き子どもだったようです。数学が好きで、頭もよかったらしいです。

 大学生以降は物理の世界へまっしぐら。修士論文のテーマとして「不規則系の電子状態」を与えられ、その後「コヒーレント・ポテンシャル近似」で一躍有名となり、1984年には「非結晶物質基礎物性の理論的研究」で猿橋賞を受賞しました。30歳代にはアモルファス物質の研究に、40歳代にはガラス転移の研究に、さらに50歳代には「複雑液体における協力現象」の研究に取り組みました。

 新しい常識を覆す研究成果を次々に発表し、認められました。他方、病気との闘いも壮絶で、それらを全て克服して、物理学の世界に一石を投じました。

 女性初の日本物理学会会長にも就任した他、日本学術会議会員にも選ばれています。まさに研究者としての人生が凝縮された一冊です。

米沢富美子『ふたりで紡いだ物語』出窓社、2000年

2010-08-05 00:57:00 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
             
             
 

   著者は理論物理学(物性論)の領域でその業績がよく知られている人です。アモルファス(不規則系)の研究者として知られています。

 夫は証券会社で国際的な仕事をし、その後退職して日本で初のM&Aを手助けする企業を立ちあげましたが、60歳で肝臓の病で亡くなりました。本書はお二人の夫婦愛を紡いだものです。

 著者は自身の研究分野での軌跡を夫との共同作業と考えている節があります。その象徴が夫の名言。結婚か研究かを考えていた若いころに、「物理と僕の奥さんと、その両方をとることを、どうして考えないの?」、「がんばって二人のうちのどちらか一人でいいから、必ず博士号をとろうね」。また「人間、40歳までに人生が決まるんだ。僕もがんがるから君もがんばれ」、「最近、君が勉強している姿をあまり見なくなったよ。怠けているんじゃないのか」。

 二人の出会いは京都大学のエスペラント部。理学部に入学した著者がこの部に入ったときに2年先輩に米沢允晴さんが部長をしていました。運命の出会いでした。

 結婚後、海外での留学の経緯、博士号学位取得、アメリカでの生活、子育て(3人の女の子)の苦労、家族旅行、著者の京都大学基礎物理学研究所から助教授を経て、慶応義塾大学の教授として活躍するプロセスが、家族の愛情深い営みのエピソードとともに、入念に記録されています。

 著者は大病(子宮がん、乳がん)の死を覚悟した経験をもっているそうですが、それを克服して日本物理学会の会長に女性として初めて就任し、大役を果たした他、科研費重点領域研究プロジェクトのたちあげ、数々の国際会議での講演をこなし、まさに「化け物」的な活動ぶりを示しました。

 その最中に夫が倒れ、亡くなりました。友人、同僚、著者の弔辞と謝辞とが胸をうちます。

 著者はたぶんに自身の夫婦の歩みを与謝野鉄幹、晶子夫妻に重ね合わせ、「好きな歌」として晶子の歌をいくつか紹介しています。さらにかつて夫とともに歩いた旅路を再訪したことの記録に最後のページをあて、見事な夫婦愛の歴史を結んでいます。

吉行和子『ひとり語り-女優というものは-』文藝春秋、2010年

2010-07-01 00:24:11 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
              『ひとり語り』の表紙画像
   女優としての著者の半生の記、というか自叙伝です。著者の両親はNHKのテレビドラマ『あぐり』で有名になったケイスケとアグリ、兄は作家として著名な吉行淳之介、妹理恵も詩人で作家です。

  しかし父の記憶は全くないとのこと、母はかなり変わり者、兄は家に寄りつかず、妹は引きこもり、一家団欒の経験などはないそうです。

 著者は幼いころから喘息持ちで苦しんだのだそうですが、劇団に憧れ、衣裳係ならできそうと、その世界に飛び込んだそうです。偶然、劇団民藝の研究所が生徒を募集していたので受験。幸い合格し、研究所生活が始まりました。

 女優になったのも全く偶然です。1956年の民藝の公演『アンネの日記』で主役が病気で倒れ、代役で初舞台。以来、50年以上、「女優」を演じ続けました。

 本書を読むと、その時々で「何かこの役面白うそう」「やって見るか」で通してきたような感じで書かれています。一貫性がないとも言われたことがあるようです。

 民藝での稽古の様子、民藝を辞める時の英断、早稲田小劇場での舞台、大病、詐欺にあい抱えた莫大な借金、一人芝居「MITSYKO-ミツコ 世紀末の伯爵夫人」のこと、など興味深く書かれています。

 『どこまで演れば気がすむの』(潮出版社)で日本エッセイストクラブ賞を受賞しているほどなので、文章は淀みなく上手いです。つぼを押さえています。

石井ふく子『お陰さまで』世界文化社、1993年

2010-06-19 00:25:07 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
 テレビドラマ「東芝日曜劇場」は37年,1877回続き,著者は93作目から本格的制作に関わり,35年間,1000本を超えるドラマに携わったとのこと。テレビドラマの草分け的存在でした。

 日本電建に勤めながらTBSの嘱託(32才)。正式にTBSの社員に(35才)。TBSを退社し専属プロデューサーに(48才)。

 以来,無我夢中で,仕事に誠実に,馬車馬的人生を重ねました。軽妙に人生を語っています。

 当然のことながら,女優,男優との付き合いが広いです。女優は大原麗子,森光子,泉ピン子など41人,男優は船越栄一,田原俊彦,植草克秀など29人(別格,松山善三・高峰秀子夫妻)の思い出が満載です[敬称略]。

 脚本家では橋田壽賀子,歌手では美空ひばり,との出会いが大きかったようです。

 タイトルの「お蔭さまで」というのは俳優の父親が生前口にしていた一言で,「あなたの蔭の下で,あなたの知恵と庇護によって,わたしは毎日つつがなく暮らさせてもらっています,ありがとうございます」という意味合いとのことです(p.35)。

 巻末にプロデュース全作品が一覧されています。豊富な写真も魅力です。

遠藤周作「生き方上手 死に方上手」文芸春秋社、1994年

2010-05-31 07:51:45 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
             
  寝転がって読んでいました。この本はいろいろなところで書いた記事をまとめたらしいのですがどのようなコンセプトで編集されたのか、それを知りたいと思い「あとがき」を読むと、たった4行、「家族が茶の間に集まって、そのなかで、父親が息子や娘に自分の人生経験をふくめてポツリポツリ無駄話をする」とあり、さらに「読者も寝転っころがって、気楽な気持ちで読んでください」と書かれていました(p.297)。見透かされてしまったようです。

 著者は幼いころ満州の大連に住んでいたそうです(「幼き日の大連」[pp.285-286])。このごろ、わたしは満州に関心があるので、このことにまず驚きでした。遠藤さんもそうでしたか、と。

 また、若いころ長期入院していたこともあったせいか、病(やまい)、生と死についての想いが淡々と書かれています。一茶の俳句、「死に支度いたせいたせと桜かな」「美しや障子の穴の天の川」や良寛の「死ぬ時は死ぬがよし」などをひきながら、死を受容することの意味、宇宙のリズムに従う心、死に上手になる手立てについて説いています。首肯することばかりでした。

 関連して治療における心のケアの話(心療内科)、ユングなどの深層心理学者の「同時性」、マイナスをプラスに転じて考えることの重要性、など幅広い哲学的考察、人生観、世界観の開陳が嬉しいです。

 そして、「沈黙」はそこから音が聞こえないのではなく、ナッシングではなく、もうひとつの世界からの語りかけが前提になっての「沈黙」なのだということ(p.265)、「小説とはこの世界のさまざまな出来事のなかから、宇宙のひそかな声を聞き取ることだ」(p.95)という名言は、この作家ならではの真実の言葉だと思いました。

梅津時比古『天から音が舞い降りてくるとき』東京書籍、2006年

2010-05-19 00:44:15 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
                                
                          


 装丁も文章も綺麗な主に音楽のことについて書かれたエッセイ集です。

 著者は毎日新聞の学芸部門の専門編集委員で、この本は毎日新聞夕刊のコラム「音のかなた」をまとめたとのことです。

 見開きでひとつの話題が完結していて、起承転結がはっきりしています。最初に問題提起があり、それを受けてひとつのテーマがあり、次に一見あらぬ方向に話がとぶように見えながら、最後に結論めいた話で落着しています。

 本書の編集にあたって遊び心がひとつあり、それは96のずらりと並んだエッセイが最初は「ボッティチェッリの青」で始まり、最後に「ショーソンの青」で終わっていることだそうです。

 「音」「光」「風」「蝶」「孤独」などがキーワードで、シューベルトのエピソードが盛んにでてきます。しかし、何と言っても、クラシックの造詣の深さが歴然とにじみ出ています。巻末にそれぞれのエッセイと関わるCDの紹介がありますが、聞いたこともない題名のクラシックが並んでいるので、これを頼りにCDを買い、耳をこやせば、世界が広がるかもしれません。

 エストニア出身のアルヴォ・ベルトのヴァイオリンとピアノによる「鏡の中の鏡」、ラヴェルの「逝ける王女のためのパヴァーヌ」、サン・サーンスのオペラ「サムソンとデリラ」などなど。

 ロシアの作曲家メトネル、アポリネールの詩「ミラボー橋」の話がでてきて、これは嬉しかったですね。

 含蓄のある言葉が次々に出てくる、例えば「実は季節に合った音楽というのは、その季節の空気の密度をとらえた音楽なのではないだろうか。秋をテーマにしているかどうかではなく、その音の響き方が秋の空気の波長の長さに合っているような音楽に、秋を感じる」(p.143)、「人は物語をもって世界を理解しようとする。いずれの宗教もすべからく壮大な物語を持っている。人もまた日々物語を自作して納得する。物語を作れなくなったとき、人は破綻する」(p.153)。

  著者はこの本で、本年度の日本記者クラブ賞を受賞しました。

渡辺美佐子『ひとり旅 一人芝居』講談社、1987年

2010-04-21 00:24:11 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
             
             
 
NHKのラジオ深夜便で女優が代り番で自分の人生を語っていますが、つい最近、渡辺美佐子さんが登場していました。そこで紹介されたのがこの本です。

 著者の生の声によると、この本はお母さんのために書いたのですが、出版されたときお母さんは入院していて、病室にこの本をもっていったのだけれど、看護婦さんが面白そう、ともっていってしまいました、翌日、美佐子さんが本を読んであげようと再び病院にいったところ、母は他界してしまい、ついにこの本の内容を伝えそこなった、といようなことを語っていました。

 さらに本書で書きたかったことは、戦争の経験、とくに小学校の頃、心をよせていた男の子が広島に疎開して被爆したこと、人探しのあるTV番組で彼を探してもらったのだけれど、そこで男の子のご両親と対面し辛い思いをしたことだったとのことでした。

 早速、本書を取り寄せて読了しました。幼児の体験、姉と兄のこと、戦争体験、偶然に入ることができた俳優座のこと、好きな海外一人旅(ソ連、インド、スペインなど)、結婚と出産のことなど興味深く書かれています。とくに一人芝居、「化粧」がスタートし、600回ほどの公演、その過程での脚本家井上ひさしさん、演出家木村光一さんとのコミュニケーションが印象に残ります。

 最初は(1982年)6人の女優の6本の一人芝居のひとつで、一本45分。それが3本づつ、二日間にわたって演じられたらしいです。6本のうち「化粧」が独立し、2幕ものと長くなり、今では日本の一人芝居の代表的作品となりました。

 美佐子さんは、今年78歳。最後の「化粧」公演が4月末から5月上旬にかけて、「ザ・高円寺」で開催されます。

斎藤明美『高峰秀子の流儀』新潮社、2010年

2010-04-10 00:10:04 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
              
            

 

  昭和9年に5歳でデビューして以来、50歳で銀幕を去るまでに300本を超える映画にほとんど主役として出演した世紀の大女優・高峰秀子さんを、その側近的存在であった著者が、普段着の彼女の生き方を綴った本です。

 生き方をいくつかの「流儀」としているところが、特徴です。すなわち「動じない」「求めない」「期待しない」「迷わない」「甘えない」「変わらない」「怠らない」「「媚びない」「こだわらない」。「ないないずくし」を肯定的に生きるのが秀子さんの流儀というわけです。

 日本映画界が誇る大女優は、実は「女優」という仕事が嫌いでした。今ではもうかなり有名な話ですが、子役としてスタートした彼女は母の死とともに叔母にひきとられ、養女として育てられましたが、この叔母がひどい人で、秀子さんの高額の収入をあてにし、呼び寄せた縁者とともに寄生虫のように彼女にたかったのです。

 彼女は女優をやめるわけにいかず、叔母に精神的に苛まれながら、小学校以来ろくに学校へも通わず、子どもらしい楽しみを知らず女優としての人生をひたすら歩みました。

 脚本家の松山善三さんと結婚し、女優をやめて秀子はようやく人間らしい生活を取り戻します。自然体で虚飾なく、簡素に生きること、これが彼女の姿勢です。女優、映画の世界から、綺麗さっぱりと足をあらったのです。

 人生の帰結が、今の「流儀」というわけです。

 いくつかの話に印象が残りました。ひとつは市川昆監督の「東京オリンピック」が酷評されたとき、多くの映画人が酷評に黙して語らなかったにもかかわらず、意志的にこの作品を擁護する文章を書き、行動したことの記述[pp.206-216](いまでは同監督のこの作品を悪く言う人はいないばかりか、映画史に残る記念碑的作品と評価が高い)。また、27歳のときに逃げるようにパリに渡り、そこで過ごした日々の記録(「二七歳のパリ その足跡を訪ねて」)と映画における女優の役割についての秀子さんの言、「映画が一軒のビルだとすれば、女優は、そのビルを建てるための一本のクギにしか過ぎません。他のスタッフと違って、たまたま画面に出る立場だというだけのことです」(p.284)

 そして、夫の善三さんとの逸話の数々。写真がたくさん挿入され、なかでもナイトのように寄り添う夫君・善三さんとのショットはいいですね。


手紙文の魅力

2010-02-14 00:44:53 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
半藤一利『手紙のなかの日本人』文春新書、2000年

               

 親鸞、日蓮、織田信長、明智光秀、秀吉とおね、細川ガラシャ、大高源五、良寛、小林一茶、佐久間象山、吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟と西郷隆盛、乃木静子、夏目漱石、永井荷風、山本五十六、小泉信三、香淳皇后の手紙が紹介されています。

 手紙は私信が主ですから、きどらない感情、いつわらない心情が吐露されるので、人柄が滲み出るものです。

 手紙という言葉は江戸時代まではなかった言葉、と書いてありました。それまでは書翰、消息、玉章(たまずき)、玉信、書状、往来などの名称であったそうです。

 目次にそれぞれの手紙から文章の引用がひとことあります。これがいいですね。坂本龍馬は「一人の力で天下動かすべきは、是また、天よりする事なり」、秀吉とおね「ゆるゆるだきやい候て、物がたり申すべく候」などなど。夏目漱石の書簡が面白い、端的な物言い。

 著者の半藤さんは、小泉信三が息子の信吉に出征のおりに宛てた、幻の名文と言われた書簡に感銘しています(そんなに美化していいのか? と一瞬思いました)。

自然のメッセージを聴く

2010-01-12 00:27:04 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
小野有五『自然のメッセージを聴く』北海道新聞社、2005年         
                      
  著者は北海道大学の教官で、環境問題、自然保護で実践的な活動を行っています。その成果の一部をエッセイという形でまとめたのが本書です。

 本書の帯には「見て、歩いて、考えた行動する科学者の魂の言葉」とあります。北海道開発局が推進するサンルダムが無駄であるばかりか、自然破壊につながるとして、工事の即時停止を訴えた「第3章:サンル川にダムは必要か」は、開発局の治水計画の説明が根拠のないものであることを説いています。

 また設置された「天塩川流域委員会」の委員の人選の不公正性、委員会運営のご都合主義を糾弾しています(ちなみにサンルダムの建設は民主党の政権交代で取りやめとなった)。

 「第4章:自然のまなざし」では北海道大学構内でのハルニレなどの当局による立木伐採(老朽化のゆえに)を、日本樹木保護協会の樹医に診断してもらい、これを中止してもらった経緯の要約です。

 以上の2つの章は、当事者の立場から実際の運動の経過を概説しているので迫力があります。

 それと同じ程度に、あるいはそれ以上に力をこめて書かれているのが、「第2章:アイヌモシリにいきる」です。この章では、アイヌの人権、生活権が歴史的に不当に扱われてきたことにたいして怒っています。アイヌの歴史を組み込んだ独自の年表は貴重です(口絵2頁、p.118)。

 また知里幸恵さんの業績が再評価され、生誕100年の取り組み、知里幸恵記念館建設に向けた活動が紹介されています。

 自然科学者らしく、冒頭の「今の地球は”重病人”」では、地球の過去45万年のCO2濃度の変化をグラフ化し、20世紀後半からのその濃度の異常な値を掲げて、地球が重症になっていると診断しています(ちなみに45万年の二酸化炭素は南極大陸の氷のコアから検出された)。

 随所に自然の声を聴く姿勢が示され、その先行きに警鐘を鳴らしています。

ロシア語同時通訳の権威による「通訳論」

2009-12-20 00:24:33 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
米原万里『不実な美女か貞淑な醜女か』新潮社、1998年
       
         



 ロシア語同時通訳で有名だった著者,米原万里さんの同時通訳論です。

 本書を通読すると同時通訳という仕事がいかに難しく、苛酷であるかがよくわかります。

 難しいというのは技術的な話がまずあります。それを著者は翻訳と対比して考察しています(pp.62-63に図解がある)。通訳者は原発言を聴取・理解・判断し、記憶やメモにも頼りながら、記憶を再生し通訳し、聞き手に伝えます。同時通訳はそれを原発言者に遅れること数秒で行うのです。

 翻訳は原文があり、読み取り、理解・判断し、翻訳者は翻訳作業を行い、読み手に伝えます。翻訳には時間的余裕があります。通訳、翻訳の直接的プロセスはいわばブラック・ボックスとのこと。

 技術的な困難にくわえ、それ以上に難しいのは2つの言語の文化的背景とのことです。それらを具体的に、好例、自身の経験あるいは公表されている失敗談の引用をふんだんに取り入れて説明しています。

 意外とやっかいなのは挨拶の通訳、また固有名詞の通訳は難儀とのこと。小咄、駄洒落、方言をどう訳すかということまで微に入り細に入り展開しています。

 機転のきかせかた、ピンチの切り抜け方なども論じながら、言語そのものの本質(たとえば優れた通訳者は母語[日本人の場合は日本語]が正確で、しっかりしていなければならないとのこと)までの展望があります。

 通訳には2とおりの型があり、原発言を逐一訳していくやりかたと、原発言のいわんとしていることを大掴みし、意訳するやりかたがあるのだそうですが、著者は後者ができる大家でした。

 奇妙な題名は「貞淑」というのが原発言に忠実な訳、「美女」とは訳文として整っているかということ、「不実」「醜女」はそれぞれ反対の意味の譬えです。