仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

始まらなかった〈物語〉

2009-06-19 20:20:46 | 生きる犬韜
少し更新が滞ってしまったので、今週末は幾つかエントリーを増やしておこう。まずは先週の話。13日(土)は勤務校で地域懇談会が開催されたので、休日にもかかわらず出勤した。この催しは、学生の保護者の皆さんが大学を訪れ、教育の現状や将来について様々な説明を受けるもので、学科集会や個人面談も行われる。近年は、参加してくださる父母の皆さんが多く、懇親会も大盛況である。ぼくのゼミは個人面談の希望もなく、さしたる仕事はなかったのだが、何やら気疲れした。

会が一段落した夕方、19:30から行われるという「世間話研究会」に参加するため、清澄白河へ。初めての会だが、土居浩さんのお誘いで参加した。大学教員はほとんどおらず、院生や高校までの教員、博物館の学芸員の方々が主要なメンバーという。夕方まで仕事をされていた方々が夜遅くに集まってこられるわけで、非常に意義ある場だと感動した。
報告は、飯倉義之さんの「「実話怪談」は猜疑する-「語りをよそおう文芸」の意味-」。確かに、ぼくのハートを直撃するテーマである。飯倉さんの話は少々くどいが、実話怪談と呼ばれるジャンルの生成過程と現状、一括りにされてしまうその語り手たちの目的・意識・作法の相違などを丁寧に腑分けしてゆく、実り多いものであった。ただし、扱っている内容がナマモノだけに、それを現象として捉えるのは困難を極める(このあたり、歴史学と比較すると逆説的なのだが)。生成過程にしても、そのジャンルが準備されてくる段階を、時代・空間双方でどこまで捉えるのか。それこそ、個々の作家にインタビューして、「誰のどの作品、どんなジャンルに影響を受けましたか」と訊いてみなければ、分からないことも多かろう。しかもそうした〈回答〉についても、きちんと言説分析を行わなければならない(歴史学の史料批判の曖昧さが際立つなー)。お見受けしたところ、まだ個々の作品の内容や方法の分析も充分ではなかったようで、課題山積といったところだろう。歴史学者としては、やはりこうした怪談を愛好するメンタリティーがどこから来るのか、何を契機に、何を糧として流行してきたのかという点に関心がある。時代情況的なものでも、より普遍的な問題としても、深く論じていただきたいものである。
会場では、昨年のモノケン・シンポ以来の、一柳廣孝さんにお会いした。相変わらずの論客ぶりであった。

この日はかなり疲れていたので、飲み会には参加せずに帰宅。清澄白河―(半蔵門線)―三越前―(銀座線)―神田というルートで京浜東北線に乗り換えようと思っていたら、三越前で横須賀線に乗れるという。地下道の案内に従ってすたすた歩いていると、今度は「神田駅至近」との出口の文字が。じゃあ、やっぱり京浜東北線で…と地上に出てみたが、地図もなく、夜のオフィス街は見通しがきかないので自分の位置も確認できない。「神田駅は高架の線路があるはず」と当たりをつけて歩いていると、何やらまったくわけの分からない場所に出てしまった。人通りもほとんどない。どこからか、ティラリラティラリラと『トワイライト・ゾーン』のメイン・テーマが聞こえてくるようだ。「このまま行けば、物語が始まってしまう」と思い直し引き返したところ、ほどなく神田駅周辺の見覚えある風景にぶつかった。

世間話研究会の帰りに、自ら都市伝説になっていたのではシャレにならない。しかし、「始まらなかった物語」に、一抹の寂しさを覚えた日でもあった。

※ 写真は、研究会の会場となった江東区森下文化センターにゆく途中の西深川橋の橋詰めにある、意味不明のシーラカンスのオブジェ。とりあえず、ヤマト・パースで。
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