494)ケトン体治療(その4):ケトン症と多幸感とシナプス可塑性

図:βヒドロキシ酪酸とγヒドロキシ酪酸は水酸基の位置が異なる異性体の関係にある。γヒドロキシ酪酸はGABA(γアミノ酪酸)受容体に作用して鎮静、抗不安、多幸感を引き起こす。βヒドロキシ酪酸もGABA受容体に弱く作用し軽度の鎮静・抗不安・多幸感の作用を示す。さらにβヒドロキシ酪酸はヒストン脱アセチル化酵素阻害作用があり、ヒストンのアセチル化による遺伝子発現誘導の作用によって、脳組織において脳由来神経栄養因子を増やすことによって認知や記憶や学習の能力を高めたり、抗不安作用を示す。

494)ケトン体治療(その4):ケトン症と多幸感とシナプス可塑性

【ケトン症は快感になる?】
1週間以上の長期間の絶食を行えば、βヒドロキシ酪酸の血液中濃度は6〜8mMのレベルになります。しかし、水以外は何も食べないというのは苦痛であり、体重が減り、体脂肪だけでなく筋肉量も減るので体力も低下し、デメリットも多いと言えます。
超低糖質高脂肪食のケトン食で、MCTオイルを多めに摂取し、ケトンサプリメント(βヒドロキシ酪酸のミネラル塩など)を併用すれば、毎日食事をしながら体重を減らさずにβヒドロキシ酪酸の血中濃度を3〜6mM程度に上げることもできます(493話参照)。
運動を行っておれば体脂肪は減っても筋肉量は増えます。実際にかなり筋肉質の体格になります。ケトン体は筋肉量を増やす効果があります。(388話参照)
ケトン食の場合は、βヒドロキシ酪酸を1〜3 mM程度に維持するレベルの食事は比較的楽にできます。しかし、3〜6mM程度に維持しようとするとMCTオイルやケトンサプリメントの量を増やす必要があり、胃腸に負担になり、腹痛や胃もたれや下痢などの不快な胃腸症状を引き起こす副作用もあり、その実施が困難な場合もあります。
私自身は、日頃はβヒドロキシ酪酸を1〜3 mM程度に維持するレベルのケトン食を実践していますが、週に2回くらいの頻度で、βヒドロキシ酪酸の血中濃度を3mM以上に10時間以上維持することを試みています。
具体的には493話で紹介したように、ケトン食を実践しながら、実行日の早朝から午後にかけてMCTオイル20g〜30gを2〜3回、ケトンサプリメント(KetoCaNa)10〜20gを1〜2回摂取することで一時的にβヒドロキシ酪酸の濃度を高めています。
これは、胃腸の不快な症状(腹痛や胃もたれなど)を伴うことも多いので、実施には躊躇する点もあります。(慣れてくると下痢や腹痛は起きなくなりますが、慣れないと下痢や腹痛で苦しみます。)
しかし、ある種の誘惑に負けて週に2回程度実施しています。その誘惑というのは、βヒドロキシ酪酸の血中濃度を高めると「脳の働きが良くなる」「脳のシナプス可塑性が向上する」「抗老化作用や寿命延長作用がある」「心臓の働きを良くする」「がんを予防する」などの多彩な健康作用があるのと、「ケトーシスになると多幸感が得られる」からです。

【断食はケトン体が増えて多幸感を引き起こす?】
ケトーシス(ケトン症)が軽度の多幸感を引き起こすことは以前から報告されています。
以下のような論文があります。

Low-carb diets, fasting and euphoria: Is there a link between ketosis and gamma-hydroxybutyrate (GHB)?(低糖質食と断食と多幸感:ケトン症とガンマ-ヒドロキシ酪酸との間に関連はあるのか?)Med Hypotheses. 2007;68(2):268-71.

【要旨】
断食や低糖質食の初期に気分が良くなり多幸感を感じることが経験的に知られている。断食や低糖質食では、脳のエネルギー源であるグルコースの供給不足を補うために体はケトン体の産生を増やし、このケトン体が増えた状態(ケトン症)が多幸感を引き起こしている可能性が指摘されている。
ケトン体の一つであるβヒドロキシ酪酸は、違法ドラッグとして知られているγヒドロキシ酪酸の異性体の一つである。
γヒドロキシ酪酸は、アルコール依存やモルヒネ依存の治療や、ナルコレプシー関連のカタプレキシー(情動脱力発作)の治療薬として使用されている。
断食や低糖質食で経験される軽度の多幸感は、脳におけるβヒドロキシ酪酸の作用機序が、γヒドロキシ酪酸の作用と一部共通するためという仮説をこの論文で解説する。
特に、βヒドロキシ酪酸は、γヒドロキシ酪酸と同様に、γアミノ酪酸(GABA)受容体の弱い部分アゴニストとして作用して軽度の多幸感を引き起こす作用を提唱する。
この仮説を検証する方法として、培養細胞を用いた受容体結合試験、ネズミを使った認知機能試験、人間における精神機能テストや機能的な磁気共鳴映像法などを概説する。
βヒドロキシ酪酸とγヒドロキシ酪酸の構造の類似性と、ケトン食と乱用薬物としてのγヒドロキシ酪酸はともに広く知られているので、脳の神経伝達物質や精神機能に対するβヒドロキシ酪酸とγヒドロキシ酪酸の共通の作用を検討することは意義がある。 

ニューロン(神経細胞)は幾つかの化学物質を介して互いにコミュニケーションを取りながら、思考や行動のひとつひとつを決めています。一つのニューロンは他の多数のニューロンからの情報を受け取り、それを総合して自身の信号を発します。ニューロンの枝と枝の結合部位をシナプスと言います。
一つのニューロンは他の多数のニューロンとシナプス結合によって複雑な神経細胞のネットワーク(神経回路)を形成しています。(下図)

図:(左)ニューロンの結合部位であるシナプスでは、前シナプスニューロンから放出された神経伝達物質が後シナプスニューロンの受容体に結合することによって、シナプス間の信号が伝達される。(右)多数のニューロンが相互にシナプスを介して信号のやり取りを行うことによってニューロンのネットワーク(神経回路)を形成している。

シナプス間の信号伝達に働く神経伝達物質の代表がグルタミン酸γ-アミノ酪酸(gamma-aminobutyric acid:GABA)です。この2つが脳内のシナプス伝達の80%くらいを担っています。(他にはセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどがあります。)
グルタミン酸はニューロンの活動を活発にする興奮性の神経伝達物質で、γ-アミノ酪酸(GABA)はその働きを抑制する働きがあります。
グルタミン酸もγ-アミノ酪酸(GABA)も、シナプス前細胞から放出され、シナプス後細胞の膜上にあるそれぞれの受容体と結合して作用を発揮します。
GABAは脳内でグルタミン酸のα位のカルボキシル基がグルタミン酸脱炭酸酵素との反応により除かれることによって生成されます。
GABAを配合したサプリメントがリラックス効果や精神安定作用があると宣伝されて販売されていますが、GABAは血液脳関門を通過しないので、体外からGABAを摂取しても、神経抑制作用が得られません。
GABA受容体のアゴニスト(作動薬)は鎮静、抗痙攣、抗不安作用を発揮します。
γヒドロキシ酪酸はGABA受容体に作用して睡眠作用や精神安定作用を発揮し、ナルコプシーや不眠症、うつ病の治療効果を持ち、アメリカやカナダ、ニュージランド、オーストラリア、多くの欧州諸国では治療目的で認可を受けています。
しかし、日本を含め多くの国で違法ドラックとして規制されています。日本では2001年に麻薬に指定され「麻薬及び向精神薬取締法」により規制されています。
ケトン体のβヒドロキシ酪酸はこの違法ドラッグのγヒドロキシ酪酸の異性体です。
βヒドロキシ酪酸は軽度の多幸感を示す作用がありますが、その作用機序がγヒドロキシ酪酸と共通する部分があるのではないかという仮説がこの論文です。
断食やケトン食を行うと軽度の多幸感のような快感を感じることがあります。
この論文では、『太古の昔からの人類の進化の観点から考察すると、短期間の絶食に関連した軽度の多幸感は、食物が無いという不安感を軽減し、食物を探す行動を押し進める作用があるかもしれない。』と言っています。
ケトン食で産生されるケトン体はアセト酢酸、βヒドロキシ酪酸、アセトンが含まれますが、βヒドロキシ酪酸はケトン基が水酸化されていて、厳密にはケトン体ではなく、水酸化された短鎖脂肪酸です。短鎖脂肪酸の酪酸が水酸化されたもので、酪酸に似た生理活性(ヒストン脱アセチル化酵素阻害作用など)を持っています。
2〜3日の絶食でβヒドロキシ酪酸の血中濃度は1〜2mMレベルに上昇し、アセト酢酸と一緒に脳のエネルギー源として利用されます。
断食や低糖質食で経験される軽度の多幸感の発生メカニズムに関しては、幾つかの説明が提唱されています。
例えば、「アセト酢酸はエタノールと同様の酩酊作用を示す」という報告があります。(Bloom WL. Metabolism 1959;8:214–20.)
アセトンの代謝産物のイソプロピルアルコールが神経組織に蓄積することが、断食に伴う神秘的あるいは幻覚的な感覚を引き起こしている可能性も報告されています。
この論文では、βヒドロキシ酪酸はγヒドロキシ酪酸と似た構造なので、γヒドロキシ酪酸の精神作用のメカニズムと共通する部分がある可能性を仮説として報告しています。

 

図:βヒドロキシ酪酸とγヒドロキシ酪酸は水酸基の位置が異なる異性体の関係にある。

つまり、γヒドロキシ酪酸はγ-アミノ酪酸(GABA)受容体に作用して多幸感などの精神作用を発揮することが知られています。
βヒドロキシ酪酸は、γヒドロキシ酪酸と同様に、γアミノ酪酸(GABA)受容体の弱い部分アゴニストとして作用して軽度の多幸感を引き起こす作用を、この論文は提唱しています。
βヒドロキシ酪酸はGABA受容体のアゴニストとして作用する以外に、グルタミン酸やGABAの産生を亢進することによってγヒドロキシ酪酸に似た作用を示す可能性も指摘されています。
βヒドロキシ酪酸が海馬脳由来神経栄養因子(brain derived neurotrophic factor:BDNF)の産生を高める効果が報告されています。BDNFは不安やうつ症状を軽減する作用があります(後述)。
ケトン体のβヒドロキシ酪酸は、GABA受容体の弱いアゴニストとして作用するので、βヒドロキシ酪酸の血中濃度を高めるほど幸福感が増強されるようです。多少の不快な胃腸症状があっても、MCTオイルとケトンサプリメントを使って血中ケトン体を高めることを自然と望むのは、そのような快感を得たいという欲求が動機になっているのかもしれません。
ジョギングをする人が「ランナーズハイ」を経験すると止められなくなるのと似ています。ランナーズハイは長時間のランニングなどの際に経験される陶酔状態で、脳内麻薬のβエンドルフィンや内因性カンナビノイドのアナンダミドの分泌が亢進して快感を得ていると考えられています。 

【断食の意義】
断食というのは、飲水以外のすべての食物または特定の食物の摂取を一定期間断つことです。その目的や方法は様々ですが、世界中の多くの宗教で断食が行われています。
食を断つことによって人間の欲望を制御し、精神の集中を助け、高い宗教的境地に到達することができます。
病気の治療目的でも古くから断食療法は行われています。古代ギリシャ時代の医師ヒポクラテスは、様々な病気の治療に断食が有効であることを記述しています。
ヒポクラテスは「断食すると体の治癒力が高まり、病気が治りやすくなる」と言っています、ヒポクラテスは約2500年前の人で西洋医学の礎を作ったとされ「医聖」や「医学の父」と呼ばれています。
薬が効かない難治性てんかんの治療に絶食が有効であることが知られています。がんやその他の様々な難病の食事療法としても断食や絶食が試されています。
絶食すると体脂肪が燃焼してケトン体(アセト酢酸とβヒドロキシ酪酸)という物質ができます。このケトン体には抗炎症作用や細胞保護作用があります。
また、絶食すると細胞のオートファジー(自食作用)が亢進して、細胞内に蓄積した異常タンパク質を分解して除去してくれます。つまり、細胞を若返らせ、治癒力を高める効果があります。
断食はファスティング(fasting)と呼ばれて、病気の治療目的で研究され実践されています。病気の治療の目的で長期間(2〜4週間程度)絶食する方法や、健康増進の目的で1週間に1〜2日間程度絶食する方法や、1日ないし数日置きに1日間絶食する間歇的な断食など、様々な方法で行われています。
絶食というのは生物にとっては生きるか死ぬかの強いストレスになるので、体は最大の防衛モードに入ります。日頃細胞分裂を行っている細胞も一時的に増殖を止めるか分裂速度を低下させ、様々なストレスや毒物に対する抵抗性を高めるタンパク質の合成を促進させます。
すなわち、絶食を行うと、物質を合成する同化作用や細胞分裂させる作用をもったホルモンや増殖因子(インスリンやインスリン様成長因子など)は減少し、ストレスに対する抵抗力を高める遺伝子の発現は増加します。
酵母の実験では活性酸素や抗がん剤に対する抵抗性は栄養飢餓(絶食)によって10倍以上に高まることが報告されています。
絶食はインスリンやインスリン様成長因子-1(IGF-1)の発現を低下させます。マウスの実験で、72時間の絶食で血中のIGF-1濃度が70%低下し、IGF-1の活性を阻害するIGF結合タンパク質-1(IGFBP-1)の濃度は11倍に増加しました。IGF-1の血中濃度が70から80%減少したマウスでは、抗がん剤などによる細胞毒性に対して抵抗性を示しました。
抗がん剤治療の前に2日間の絶食を行うと副作用が少ないことが報告されています。(391話参照)
寿命の研究では、成長ホルモン/IGF-1シグナル伝達系の阻害は、ストレス抵抗性を高め、寿命延長作用を示すことが多くの実験モデルで示されています。例えば、IGF-1シグナル伝達系が欠損している動物は寿命が長く、ストレスに対する抵抗性が高いことが報告されています。
つまり、絶食はインスリンやIGF-1シグナル伝達系の抑制によってストレス抵抗性が増し、寿命を延ばすメカニズムが作動すると考えられています。
カロリー制限が寿命を延ばす効果は多くの研究で確認されていますが、この効果も断食と似たメカニズムです。
断食やカロリー制限を長期間行うのは苦痛を伴います。断食やカロリー制限と同様な効果を得られる楽な方法があれば有用です。その一つの方法としてMCTオイルを多く使ったケトン食とケトンサプリメントの併用と、時々1日程度のプチ断食は有効かもしれません。 

【脳は鍛えることができる】
脳の可塑性」や「シナプス可塑性」という神経科学分野の用語があります。
可塑」とは、辞書によると「やわらかくて形を変えやすいこと」と説明されています。「脳の可塑性」や「シナプス可塑性」というのは、「脳の神経のネットワークを変えることができる」ということです。
前述のように、シナプスとは、ニューロン(神経細胞)とニューロン、あるいはニューロンと効果器細胞との接合部位のことで、このシナプスの間には約20nmの間隔があり、神経伝達物質(グルタミン酸、γアミノ酪酸、ドーパミン、アセチルコリン、ノルアドレナリンなど)によって刺激が伝達されます。
多数のニューロンの接続(シナプス)によって脳の機能を支える「神経のネットワーク(神経回路)」が形成されています。
脳が情報を取り込むとニューロン間の活動が起きます。その活動が繰り返されるほど、ニューロン同士の連絡が強くなり信号が伝達しやすくなって、ニューロン間の結びつきができていきます。このようにして新しい情報が記憶として定着して行きます。このシナプス可塑性は脳の成長段階での学習や記憶の強化に関与します。
20世紀の間は、脳のニューロンのネットワークは青年期に完成したあとは変えられないというのが神経科学の常識でした。しかし、1998年に脳の海馬のニューロンが分裂して増殖する(ニューロン新生)ことが証明されました。海馬は記憶と学習に関わる領域です。
つまり、神経回路は刺激(入力)によって発達しながら形成され、成人になるまでにひとまず完成しますが、成人になってからも、外部入力に応答して脳の神経回路は変化し続けます。つまり、成人してからも脳は発達し、能力を高めることもできるのです。
シナプス可塑性はアポトーシスによるニューロンの減少と、神経細胞の新生や発芽によるシナプス接合部の増加という物理的な変化と、長期増強(long-term potentiation)という信号の通りが良くなるという生理的な変化によって起こります。
脳が情報を取り込むとニューロン間の活動が起こります。その活動が繰り返されるほど、ニューロン同士がより強く連結するようになり、信号が伝達しやすくなります。このようにして、ニューロン間の結びつきができて行きます。このようにして新しい情報が記憶として定着していきます。このようなメカニズムが長期増強です。
脳の可塑性が高いというのは、新しい機能を獲得する性質、新しく獲得した機能を維持する性質に優れているという事です。つまり、学習機能や記憶力が高い状態を意味します。

【運動は脳由来神経栄養因子の産生を高め、シナプス可塑性を増強する】
学習や記憶形成のプロセスと身体活動はお互いに独立し、異なる器官システムによって行われていると一般に考えられています。
しかし、進化の観点から考察すると、動物が生存するためには、これらのプロセスは相互に密接に関連する必要があると考えられます。つまり、差し迫った危険に対応するために身体活動を高める必要があります。
差し迫った危険に反応することは、走ることを必要とするだけでなく、危険の位置と周囲の状況を適格に把握し、危険を避ける方法を学習し、その新しいストレスに適応するために、記憶や学習といった脳の働きを高める必要があります。
運動は、脳の血液循環を良くし、認知機能を高めるなど、多くの有用な作用があります。
運動は、血液の循環をよくし、体の代謝を盛んにし、気分を爽快にして、ストレスを緩和し、リラクセーションと快適な睡眠により体の治癒力を向上します。
運動には、身体的な利点と同時に、大きな心理的変化も起こします。 

規則的に運動している人は、運動していない人に比べて考え方が柔軟になりやすく、自己充足感が高く、抑うつ感情も軽減します。
抑うつ感情は健康維持に悪い影響を与えるため、規則的な運動によって抑うつ状態から抜け出すことは、心身を健全な状態にもっていき、免疫力にも良い影響を与えます。
運動が認知機能を良くすることも良く知られています。
運動が脳の可塑性を高め、認知機能など脳機能を高めるメカニズムの一つとして、脳由来神経栄養因子(Brain-derived neurotrophic factor:BDNF)の関与が指摘されています。
脳由来神経栄養因子(BDNF)はニューロンの回路を構築し維持する働きがあります。BDNFはニューロンを新生させ、シナプス結合を増やすことによって学習機能や記憶形成の能力を高めます。
学習と記憶形成のプロセスには脳由来神経栄養因子が重要な役割を果たしています。脳由来神経栄養因子は神経を増殖させ、新しいシナプスを作ることによって、学習や記憶の働きを高めるのです。
身体活動や神経活動は脳における脳由来神経栄養因子(Bdnf)遺伝子の発現を顕著に亢進します。その結果、運動は学習機能や記憶形成の能力を高めることになります。 

【βヒドロキシ酪酸は脳由来神経栄養因子の産生を高める】
運動が学習機能や記憶形成の能力を高める」という事実は良く知られていますが、運動とBdnf遺伝子発現の関係に関する分子メカニズムは不明です。ごく最近の研究で、運動で海馬のβヒドロキシ酪酸が増え、脳由来神経栄養因子(BDNF)を増やして、認知機能や学習能力を高める機序が報告されています。以下のような報告があります。

Exercise promotes the expression of brain derived neurotrophic factor (BDNF) through the action of the ketone body β-hydroxybutyrate.(運動はケトン体のβヒドロキシ酪酸の作用によって脳由来神経栄養因子の発現を亢進する)Elife. 2016 Jun 2;5. pii: e15092. doi: 10.7554/eLife.15092. [Epub ahead of print]

 【要旨】
運動は脳において良好は反応を引き起こす。この反応においては、認知機能を向上させ、さらに抑うつや不安を軽減する作用を持つ脳由来神経栄養因子(Bdnf)の増加が関与している。しかしながら、身体的運動が脳におけるBdnf遺伝子の発現を誘導するメカニズムについては十分に解明されていない。
ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤の薬効用量でBdnf遺伝子の発現が亢進する。この研究では、運動後に分泌される内因性の分子がハツカネズミのBdnf遺伝子の発現を亢進することを明らかにした。
長期間の運動によって産生が増える代謝産物のβヒドロキシ酪酸がBdnf遺伝子のプロモーター活性を増強した。
βヒドロキシ酪酸は、Bdnfプロモーターに選択的に作用するヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)のHDAC2とHDAC3に作用することを明らかにした。
さらに、脳室内にβヒドロキシ酪酸を直接注入すると、海馬のBdnf遺伝子発現が亢進した。
電気生理学的実験によって、βヒドロキシ酪酸は神経伝達物質の放出を増やしたが、この作用は脳由来神経栄養因子受容体(TrkB)に依存していた。
これらの結果は、運動がPDNF(脳由来神経栄養因子)の発現を誘導するメカニズムを明らかにしている。

この実験では、マウスを1匹づつケージに入れて、運動群(running wheelあり)と非運動群(running wheelなし)で30日間飼育しています。
Running wheelというのはマウスを運動させる「回し車」で、マウスは運動好きなので、これをケージに入れておくと自発的に毎日10キロメートル以上も走るそうです。この回し車を入れていないケージのマウスは運動しないことになります。
その結果、運動をするマウスでは、脳の海馬のBdnf遺伝子の発現量が増えていることが明らかになりました。さらに、海馬のβヒドロキシ酪酸の濃度も高くなっていました。
βヒドロキシ酪酸にはクラスIのヒストン脱アセチル化酵素を阻害する作用があります。(322話参照)
この論文では、βヒドロキシ酪酸を脳室に直接注入するとBdnf遺伝子の発現が亢進することを確かめています。

運動するとβヒドロキシ酪酸の産生が増え、βヒドロキシ酪酸はヒストン脱アセチル化酵素を阻害してヒストンのアセチル化を亢進。その結果Bdnf遺伝子の発現が誘導されるというメカニズムを提唱しています(下図参照)。

図:運動は脳(特に記憶や学習に関与する海馬や大脳皮質)においてβヒドロキシ酪酸の産生を増やし、βヒドロキシ酪酸はヒストン脱アセチル化酵素阻害作用によってヒストンをアセチル化し、脳由来神経栄養因子の産生を増やす。脳由来神経栄養因子はニューロンを新生とシナプス結合を増やすことによってシナプス可塑性を亢進し、学習機能や記憶形成の能力を高める。 

運動は海馬のBDNF(脳由来神経栄養因子)のレベルを増やすことによって抑うつ気分を軽減します。BDNFは可塑性とシナプス形成を高め、神経変性を減少させます。
βヒドロキシ酪酸がヒストン脱アセチル化酵素阻害作用によってシナプス形成を亢進することは学習機能と記憶を高めることになります。
βヒドロキシ酪酸のクラスIのヒストン脱アセチル化酵素に対する50%阻害濃度(IC50)はおよそ2~5mMと報告されています。つまり、βヒドロキシ酪酸を2mM以上に高めれば高めるほど、脳由来神経栄養因子の発現が増え、学習や記憶の機能が高まります。つまり、頭が良くなります。
アセチルCoAを増やすアセチル-L-カルニチンを併用するとケトン体の産生を高めることができます。(313話参照)
ナイアシン(ビタミンB3)は、BDNFと受容体TrkBの発現を増やすという報告もあります。
βヒドロキシ酪酸の遺伝子はcAMPで発現が活性化するので、cAMPを増やすカフェインも有用です。コーヒーや緑茶を多く飲むとケトン体産生能を高めることができます。
脳の海馬の脳由来神経栄養因子を増やす方法として、規則的な適度な運動+ケトン食+MCTオイル+ケトンサプリメント+アセチル-L-カルニチン+ナイアシン+コーヒ(あるいはお茶)は学習機能と記憶力を高める方法として有効だと言えます。アルツハイマー病やパーキンソン病など様々な神経変性疾患の治療に積極的に利用する根拠は十分にあります。 

【運動とカロリー制限と活発な知的活動はシナプス可塑性を高める】
認知機能やシナプス可塑性は脳由来神経栄養因子(BDNF)によって影響され、BDNFシグナル系は多くの神経変性疾患や精神疾患で低下しています。
BDNFの低下はうつ状態になり、抗うつ剤治療でBGNFは増加することが報告されています。
運動は脳においてBDNFの発現を亢進し、認知機能を高め、うつ状態を軽減すると説明されています。
運動が神経変性疾患や精神疾患を改善するメカニズムの一つがBDNFと言われています。
前述のように、動物実験では運動はBdnf遺伝子のmRNA発現を増やすことが報告されています。多くの脳領域で増えますが、とくに海馬と大脳皮質で増えます。
運動はケトン体のβヒドロキシ酪酸の海馬における濃度を高めました。βヒドロキシ酪酸は神経細胞のエネルギー源となると同時に、ヒストン脱アセチル化酵素阻害作用によって、BDNF遺伝子の発現を亢進する作用が指摘されています。
成人期に定期的に運動をしている人はパーキンソン病やアルツハイマー病になりにくいことが示されています。

空腹時に体と脳が機能しなければ生存はできません。現代人とペットと家畜は、自由にいつでも食べることが保証されています。
しかし、我々の太古の祖先や野生の動物は、飢餓を絶えず経験する生活を送っています。例えば、野生の肉食動物が獲物を食べるのは、1日に1回であったり、数日に1回であったり、さらに間隔があくこともあります。
キングペンギンや皇帝ペンギンは毎年3〜6ヶ月間絶食しています。
世界中の草食動物も、食糧のない時期をいつも経験しています。例えば、北極地域のトナカイは、冬の長い間をほとんど食糧がない状況で暮らしています。逆にアフリカやオーストラリアでは夏の干ばつ時期には食糧が無くなります。
現代人でも、発達途上国では、飢餓をしばしば経験します。

脳神経のシナプス可塑性を高める方法として、運動とカロリー制限と知的活動が有効です。通常、実験に使われるラットやマウスは、餌は自由に食べるだけ食べ、ケージには回し車(running wheel)もなく、運動できる状況でもなく、一つのケージに4〜5匹程度の小グループで生活しています。
このような状態を英語でcouch potato(カウチポテト)と呼んでいます。「ソファーにジャガイモのように寝そべってテレビばかり見ていること」を意味します。
野生の動物に比べると、運動不足で過食で知的な刺激も乏しい状態です。
回し車を使えるようにすると、マウスやラットは1日に10から20kmにもおよぶランニングを自発的に行います。
そして、このような運動をするマウスやラットは海馬のシナプス可塑性が亢進し、記憶や学習機能が良くなります。運動は海馬の神経細胞の増殖も亢進します。
一般に老化に伴って学習や記憶の機能は衰えますが、運動をすることによって、老化に伴う脳の機能低下は防げます。
食事のカロリー制限も学習や記憶の機能を高めることが明らかになっています。
例えば、3ヶ月齢のマウスを12ヶ月間カロリー制限を行うと、学習や記憶の機能を評価する様々な試験で、コントロール群と比べて成績が顕著に良かったという報告があります。
運動とカロリー制限は、神経可塑性の改善において相加的に働くことが示されています。
つまり、餌のカロリーを減らし、runnig wheelで運動させると、学習や記憶の機能は明らかに良くなったという報告があります。海馬のシナプスの密度も亢進していました。
つまり、少なく食べて、より長く運動すれば、頭が良くなるということです。
知的刺激を増やす方法もシナプス可塑性を高めます。マウスの実験で、ケージを1m四方くらいに広げ、その中にrenning wheelだけでなく、多数の登坂器具や潜り穴やおもちゃのようなものを入れて飼育すると、知的活動を刺激することができます。このような環境に入れると、マウスは不安や抑うつのような症状が無くなり、様々な学習や記憶の試験で良好な結果を出すことが示されています。
老化に伴う認知機能の低下を防ぐためには、運動とカロリー制限と知的刺激が有効です。βヒドロキシ酪酸の血中濃度を高めるケトン食もシナプス可塑性を高めて記憶や学習機能を高める上で有効です。 

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