雑話、でありますところ
随想でもありませんが、思ったことを書きとめておかないと
最近は物忘れが酷いということを理解したうえで
メモとしてブログを活用って、俺頭よくね?とか
そういう目的であります
柳生十兵衛、チャンピオンズリーグ、サライ等
消化したい余暇の友が大量に蓄積されているのが
悲しいこのごろ
さておき、先日読了しました奇貨居くべしにて
あれこれと思ったのでありましたが
王道統治における有り方というものについて
こんこんと、自分がいつか皇帝になることを夢みてというか
まぁ、その時のために準備というわけで
考えておるのでありますが
いや、既にそれを考えるという時点で
皇帝ではなく、相国にでもなりたいのか
まぁよい
ともかく、秦という国が
始皇帝前に行った戦略
これが実際にそうだったのかは、寡聞にして知らず
宮城谷説を手本として思っていくのでありますが
荒れくれものとして知られていた秦の兵隊が
殺しを行わずに占領当地を行った
というくだりがあったのであります
これは、まぁ、昔から善良な統治方法として
知られたというか、中国物の歴史ドラマでは
ごく自然に使われてくる、いい奴がやる方法でありますが
呂不韋もどうやらそれを行わせていたらしいとのこと
しかし
実際にそのようなことができたのだろうか
今まで、戦争といえば殺し尽くしを当たり前にしてきた奴らが
相国の命令とはいえ、すぐに言うことをきいて
それを守ったのだろうか
ありえない
その頃の戦争方式の大半が、殺し尽くし、奪いつくしからきていた
そのはずなのに、唐突に行われた、いわゆる善政というのが
即刻浸透したとはどう考えてもおかしいと思われる
が、秦という国にはショウオウによって定められたというか
導入された、優れた法律による法治国家という基盤があって
その法規に照らされた上での命令であって
それに従った、ということも考えられんこともない
が、しかしだ
それまでのところ、奪いつくし行為により
現地で糧秣を調達するという
孫子以来の戦略方法をずっと経典として実施していた
ということは、兵站の概念が大きくかわる
またここで、軍事における体制がかわるだろう
それを初采配からまったくよどみなく行ったというのは
これまた不可解であります
呂不韋が卓抜した能力の持ち主だった
あるいは、率いた秦の名将が
本当に異様なまでに優れていたということも
考えられるのだが、一人が強力だと全てが収まるという
その範囲にて何もかもが行われていたとは想像がしにくい
何万という兵隊を率いるのに
それを完全にやり遂げるとは、これは少々、いや、難しい
この話、嘘だと思うのだ
と、こんこんと語りつくしたあげく
じゃぁ、なんだというくだりに入るわけでありますが
安直なことしか思い浮かばなかったのであります
荘穣王だったか、始皇帝の父親格であった秦の王が
鬼神信仰の持ち主だったところに着眼
なるほど、宗教統治だったのであるまいか
ということになったりならなかったり
と、ここらあたりでよしておこうと
せつせつ思うのでありますが
ともかくだ、占領統治の難しさの解消
それがはなはだ理解に苦しいのでありました
攻め取った地域がとんでもない圧政を強いていて
貧乏のきわみみたいな人民ばかりであったなら
占領したあと、駐屯しつつ、治安がその後も問題がなかった
彼らの生活がむしろ向上したように見えた
そういうことであれば、などと思うのでありました
法治国家の基本となりつつあった秦なので
その法治による素晴らしさというのが
無法国家にて理解されたならば、その占領をよしとしたのかもしれず
だが、はたして、法による統治をよしとしたのかどうか
それによる窮屈さよりも、そうではない暴力に怯える日々だったのか
今からは伺い知ることはできないのでありますが
つとつと、小学生の群など見ていると
なんとなし、彼らのクラス内で敷かれた雰囲気という奴が
それこれ、統治のなにがしになるのではなかろうかなどと
思ったり考えたりしつつ
暇なサラリーマンはろくなことを考えないというお話
随想でもありませんが、思ったことを書きとめておかないと
最近は物忘れが酷いということを理解したうえで
メモとしてブログを活用って、俺頭よくね?とか
そういう目的であります
柳生十兵衛、チャンピオンズリーグ、サライ等
消化したい余暇の友が大量に蓄積されているのが
悲しいこのごろ
さておき、先日読了しました奇貨居くべしにて
あれこれと思ったのでありましたが
王道統治における有り方というものについて
こんこんと、自分がいつか皇帝になることを夢みてというか
まぁ、その時のために準備というわけで
考えておるのでありますが
いや、既にそれを考えるという時点で
皇帝ではなく、相国にでもなりたいのか
まぁよい
ともかく、秦という国が
始皇帝前に行った戦略
これが実際にそうだったのかは、寡聞にして知らず
宮城谷説を手本として思っていくのでありますが
荒れくれものとして知られていた秦の兵隊が
殺しを行わずに占領当地を行った
というくだりがあったのであります
これは、まぁ、昔から善良な統治方法として
知られたというか、中国物の歴史ドラマでは
ごく自然に使われてくる、いい奴がやる方法でありますが
呂不韋もどうやらそれを行わせていたらしいとのこと
しかし
実際にそのようなことができたのだろうか
今まで、戦争といえば殺し尽くしを当たり前にしてきた奴らが
相国の命令とはいえ、すぐに言うことをきいて
それを守ったのだろうか
ありえない
その頃の戦争方式の大半が、殺し尽くし、奪いつくしからきていた
そのはずなのに、唐突に行われた、いわゆる善政というのが
即刻浸透したとはどう考えてもおかしいと思われる
が、秦という国にはショウオウによって定められたというか
導入された、優れた法律による法治国家という基盤があって
その法規に照らされた上での命令であって
それに従った、ということも考えられんこともない
が、しかしだ
それまでのところ、奪いつくし行為により
現地で糧秣を調達するという
孫子以来の戦略方法をずっと経典として実施していた
ということは、兵站の概念が大きくかわる
またここで、軍事における体制がかわるだろう
それを初采配からまったくよどみなく行ったというのは
これまた不可解であります
呂不韋が卓抜した能力の持ち主だった
あるいは、率いた秦の名将が
本当に異様なまでに優れていたということも
考えられるのだが、一人が強力だと全てが収まるという
その範囲にて何もかもが行われていたとは想像がしにくい
何万という兵隊を率いるのに
それを完全にやり遂げるとは、これは少々、いや、難しい
この話、嘘だと思うのだ
と、こんこんと語りつくしたあげく
じゃぁ、なんだというくだりに入るわけでありますが
安直なことしか思い浮かばなかったのであります
荘穣王だったか、始皇帝の父親格であった秦の王が
鬼神信仰の持ち主だったところに着眼
なるほど、宗教統治だったのであるまいか
ということになったりならなかったり
と、ここらあたりでよしておこうと
せつせつ思うのでありますが
ともかくだ、占領統治の難しさの解消
それがはなはだ理解に苦しいのでありました
攻め取った地域がとんでもない圧政を強いていて
貧乏のきわみみたいな人民ばかりであったなら
占領したあと、駐屯しつつ、治安がその後も問題がなかった
彼らの生活がむしろ向上したように見えた
そういうことであれば、などと思うのでありました
法治国家の基本となりつつあった秦なので
その法治による素晴らしさというのが
無法国家にて理解されたならば、その占領をよしとしたのかもしれず
だが、はたして、法による統治をよしとしたのかどうか
それによる窮屈さよりも、そうではない暴力に怯える日々だったのか
今からは伺い知ることはできないのでありますが
つとつと、小学生の群など見ていると
なんとなし、彼らのクラス内で敷かれた雰囲気という奴が
それこれ、統治のなにがしになるのではなかろうかなどと
思ったり考えたりしつつ
暇なサラリーマンはろくなことを考えないというお話