↑京都撮影所で私 ↑左から高橋恵子・松坂慶子・私
会津若松市が私の本籍地です。
そんな私が昭和30年代に大映九州支社へ転勤してきたのも、戦後台湾から
引揚げて高校時代を九州で過ごしたことや、当時は両親が健在で九州に住
んでいたことに対する会社の温情だったのかもしれません。
私はもともとは監督志望で勉強中だったのですが、お前は宣伝部に向いてい
る・・・と言われての商売?変えでした。
映画会社の宣伝部は他の企業の宣伝・広報部とは違っていて、各部門に意
見が言える立場であり、更に責任はあるけど大きな権限を持ち、しかも自由で
ありやり甲斐を感じたからこそ快諾したものです。
そんな訳で映画の全盛期を福岡で過ごした私は、九州地区全体(下関含む)で
作品ごとに色々な趣向を考え宣伝活動、話題づくりに明け暮れる毎日を過ごす
ことになりました。
当時は毎週2本立で月8本の新作が出てきますし、当時は大映がディズニー
作品を配給していたので本数が更に多かったし、生易しいことではありません
でした。
支社の宣伝部だけでも11人いたなんて今では考えられない人員です。
何か面白いこと、他社が考えつかないことをやろうといつも考えていましたし、
今では当り前になりましたが、監督・俳優によるのキャンペーンは毎月のよう
に行いました。
博多には山本富士子・若尾文子・市川雷蔵・勝新太郎・田宮二郎・本郷功次
郎・松坂慶子・関根恵子(現、高橋恵子)などの主演クラスがよく来てくれた
し、大映に初出演し当時引っ張り凧の朝丘ルリ子を来福させ、デパートの屋
上でサイン会を開催しようとしたらファンがあふれ、屋上から人が落ちそうに
なって中止、隣のビルの屋上からマイクでご挨拶させたなんてこともありま
した。
キャンペーンの顔ぶれで最も豪華だったのは「人斬り」で、五社監督・三島
由紀夫・勝新太郎・仲代達矢・賠償美津子の面々でした。私流の特別な根
回しで福岡だけに実現したキャンペーンで、今では想像も出来ないメンバー
でした。
その他には渥美マリ売り出しのため、博多のど真ん中(水上公園)で水着姿
にして撮影会をしたり、「野火」の宣伝で、当時ある炭鉱にブルトーザーとし
て残っていた砲塔を除いた戦車を拝み倒して借り、本物そっくりに改装し、
博多の明治通りを走らせるなんて突拍子もないことをやりましたが、警察
から大目玉をくらったのも今となってはいい思い出です。
(続きます)
↑今井正監督と私 ↑仲良しだった叶順子と私
左は山本富士子と私。 四人組は左から私・上原キャメラマン・小原譲二カメラマン・船越英二