勝地(かつち)ブログ

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vol.776 生きるとは

2018年11月01日 21時40分47秒 | Weblog
今日も「勝地ブログ」にアクセスいただき、ありがとうございます。


今日の研修会も、勉強になりました。

勉強になったと思う二つのうちの一つ、生きる力、とは、です。

生きる力を育む、と、よく小学校の先生がおっしゃっているのをこれまで見聞きしてきました。
それは多分思うに、挨拶の励行だとか、生き物の命を尊ぶだとか、仲良く親切にだとか、その類のものではなかったのかと。

今日の講話と決定的にインパクトが違って見えたのは、コレがあったから、コレあるから生きねばならないという覚悟みたいなもの。

今日の話の実例は、とても幼な子の時に風邪か何かで鼻が膿で詰まってしまい息ができない状態になったその時に、母親が鼻を口で覆い口で吸い取ってくれて生き延びたという、そのことを少し大きくなってから聞かされて、生かされたなんとしても生きていかなければというそのことが今の生きる力になっているというお話。

ノホホンとして生きていてはいけない。


二つ目は、自分の今ある根源は檀那寺に蓄積されているということ。

村の集会所や役所には何も無い。村の庄屋にも無い。あるのは村のお寺。

寺は地域の歴史や文化、伝統が集積している。少子高齢化の進む中で、田舎といえども沢山の外国人が入り込んで生活の一翼を担うのはそう遠い話ではない。そうした時に何をもって誇りとして対峙していくのか。その誇りの集積は村の寺にしかない。

何故、戦国時代にあっても秀吉は寺を焼き討ちしなかったのか。それは、駆け込み寺として理由を問わず民衆を救い続けていたから。

その寺を護持し続ける役員として今があるなら、それは素晴らしいこと。自分ルーツの全てが寺にある。その寺役ならよろこんで仕えるべき。それを金で換算するからダメなのだ。というお話。

要するに命のタスキリレーをしている一人なのだから、しっかりタスキを渡せということかと理解しました。


哲学です。

何故生きているのか、生かされているのか。


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vol.775 参与研修会

2018年11月01日 09時49分37秒 | Weblog
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神鍋ブルーリッジホテルで但馬真言宗の参与研修会。


「明治から150年を記して」として但馬文学会 水嶋会長の講演。

午後は、「大師に守られ、導かれ」として高野山本山布教師 神戸大師寺住職 中谷昌善僧正の講演。

ホテル玄関前を通り過ぎていった、コレ、ナニ、の車。




運転席からお坊さんが降りてこられて、何処のクルマ?とお聞きすると、ニーハオ、你好。ナルホド、車種は1人乗りの単車らしいです。


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