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お盆も終わりました。
16日夜は、京都の五山送り火のテレビ中継を見ながら一杯呑むのが例年の楽しみの一つなのですが、今年はテレビ番組にその企画が見当たらない。どうなんかな、8時を待ってみよう。
村内に点在するお墓群、掃除がされてないお墓も目に付くようになりました。
地方から都市への人口移動、核家族化、少子化、高齢化による行き着いた結果だと思うし、結果として仏教への関心が薄れ寺との距離が遠くなる、そうすると葬儀も形式ばって行おうとは思わなくなる、そして金銭面もあるし。
家族葬という形式、コロナ禍だからそうしたということでなく、葬儀に対する意識変化が進んでいる様が、コロナ禍で一気に顕在化したのだろう。建前と対極にある本音の部分。
中央公論9月号、信仰なき時代の仏教という特集が組まれている。
世界宗教者平和会議日本委員会理事長/戸松義晴氏は、
そもそも檀家と寺の関係は自動的に続くものではない。
代々の付き合いや宗教や教義より、これからは寺の雰囲気や住職や僧侶の人柄、法話の内容などで選ばれる時代になる。
普段の人づきあい、人間関係と同じ。
ビジネスの世界だったら合理性や効率性を優先しなくてはいけないこともあるが、プライベートなら、好き・嫌いを優先させるはず。人と宗教のつき合いは、間違いなく後者の領域。
逆に寺の立場からいえば、私たちが檀家を選ぶのではなく、檀家から信頼され選んでもらえる寺にならなければ先はないということ。
寺離れは進行しているかもしれないが、宗教そのものが忌み嫌われているわけではない。
社会から何を求められているのかを考える、それが寺離れに歯止めをかける手立てではないか。
と述べられている。
「生」のあと「老病死」が病院や施設、或いはひとり住まいの家で、ひっそりと静かに進んでいる超高齢のそんな時代にあって、最期に残された時間をどう過ごしていくのか、そこに安心はあるのかそこを皆んな心配しているのだが。
なるようになる、のではあまりにも長年頑張ってきた「生」が虚しく感じる。