Yoshi Veggie & Salon de Topinambour

自然な暮らしとナチュラルフード、地球の多様な食文化を愛する、旅する植物料理研究家YOSHIのつれづれ

Vege a Table CAFE TOPINAMBOUR→Salon de TOPINAMBOUR→秩父へ旅は続く

旅する植物料理研究家YOSHIは、食文化と風土の多様性を愛し、ベジタブルを愛し、そのきらめきとときめきを料理に、レシピに、食卓へとつなげていきます。

2018年春、国立→秩父へ拠点移動中 タミパン&料理ワークショップ・料理制作等々、プライベートグループへの出張も随時行っています。 お問い合わせください。

新月と草によせて

2017-07-26 | Weblog
新月は毎月、意味深。

私も、私のトランスジェンダーの相方も、からだとこころがもろに影響を受ける、場合が多い。

新月と満月の頃は、自分の気まぐれに忠実にあれるように、大事な用事やひととの約束をできるだけ入れない。

自分に向き合う日であり、バイオリズムを知る日。

不要になったこだわりがはらりと落ちて、急にシフトチェンジが起きるのもやはりこのとき。

だから私は、自分のなかに起きる浮き沈みを、必要なプロセスとして認めている。


逆に、用事や約束を入れて、そのときに出会ったり、語り合ったり、体験したことが何倍もの放射力をもって良き影響をしあうことがある。

この間の新月が、まさにそれ。

私にとっては、自分に立ち返り、振り返りがもたらされ、時間を超えて人生の数珠がひとつながりに感じられた日だった。


私は物心ついた頃から、植物との濃い(恋)関係を結んできながら、それはおだやかで、継続的なもので、両者の間で思いを温め合っている、それだけのプラトニックな関係だったように思う。

プラトニックな私たちの密かなアウトプットは、野菜(ベジ)料理をつくり、だれかに食べて喜んでもらうことと、広めること。
その目指す先には、植物を食べることによる人と地球の健康と、平和な世界をつくっていくことを、ともにおきながら。


この新月、私が幼少からこれまで導かれてきたことを走馬灯のように振り返っていた。

料理においても、生き方においても自然界に倣った、多様性と調和の実現が常にテーマだった。そのベースには、オーストラリアで学んだパーマカルチャーやパーマカルチャリストたちとの出会いがある。

ここのところ毎年行く、インドの自然療法アーユルヴェーダ。
奇跡的な治癒体験をして、伝統的知恵と自然の驚異的な力を見る。それでも、インドとは気候風土が異なる日本では、現地の薬草、ココナッツ、ギーやバターミルクなどの乳製品を多用することには無理が出てくることへの、身土不二上の矛盾が気になってもいた。

アジア、ヨーロッパで、数々の農園・プランテーションを巡ってきた。
コーヒー、茶、ぶどう、香辛料、米、豆、甜菜、ゴム・・・人間を交易に駆り立ててきた植物たちが育つ場。

20代初めの頃、薬草療法家モーリスメッセゲを訪ねに南仏に行ったことや、アロマセラピーの再興に貢献したロバート・ティスランドの講座を受けにロンドンに行き、またブライトンにマギーティスランドを訪ねたこと(彼女とは長期の留守で会えなかったが、その後わざわざ詫びの手紙をくれた)。アロマセラピーが興味をそそったのは、植物の香りがひとを癒すということに、ファンタジーを覚えたからだ。メッセゲを訪ねたいと思ったのは、薬草療法がヨーロッパにもやはりあり、身近なハーブや野菜を薬にする知恵を受け継ぐひとがいることが、ひどく気になったからだ。

専攻の流通経済論をさておいて、入り浸った農業経済論の研究室。
そこでは課外授業の方が多く、日本有機農業研究会の総会に出かけ、合鴨農法の援農をし、ゼミが終わると先生の自宅に移動して奥さんのオーガニック手料理とビールで毎度の宴会。

皮膚トラブルが起きたことでからだのエコロジーに向き合い、始めることになった穀物菜食料理、マクロビオティック。

インターネット黎明期に一念発起して立ち上げたウェブ上の「世界の豆文化研究所」。

緑の革命から始まって、自然の摂理を壊すような開発や経済活動が行われてきたことは、地球の生き物すべてにとって耐え難い環境をつくってきた。遺伝子組み換え農業、種苗・農薬会社による種の支配、モノカルチャー的な大規模農業、原発。身土不二の摂理を無視して市場経済を最優先するようなグローバル資本主義経済、そういう一連のループには、直感的にNOだ。

さらにずっと遡れば、都市を知ることなく海・山・野・川・干潟・畑で育ち、母や祖父母から食べられる野草とその採取を教わり、父が山を開墾して小さな自然公園(畑)にするのを週末ごとに手伝わされながら過ごした子ども時代。あぜ道が舗装道路に変わっていき、農地が宅地に変わっていき、地表の緑や土や岩がコンクリートに変わっていくことへの悲しみ。そこが私の原点。


ずっと、私のなかには植物がいた。
テーマはいつも、手付かずの大自然というよりは、植物の手を借りて、人が営むものについてだった。

さらに気がつけば、ここ何年も、インドの有機スパイスの仕事をしている。
定期的に指導を受けているトレーナーからは、自然のなかでのトレーニングと木登りのプログラムが用意された。そしてそれはたまらなくワクワクさせる。


Japanese herbs photo par Shoko


新月のその日は、秩父にある私設の森林公園で、葛から繊維をつくり、日本に自生する野草をハーブボールにして、葛の繊維(糸)で結う、そんなワークショップを受けたのだった。

耕作放棄で農地が荒れると、葛が茂って、木までも覆いつくしてしまう。アメリカでは土壌流出の対策のために日本から取り入れられたが、やはり繁茂して厄介者扱いに。だけど、高価な本葛粉や漢方薬葛根湯の原料として、重宝されてもいる。蔓(つる)は籠編みや野遊びに欠かせない。



そんな葛を愛し、導かれるように葛を追求してきた女性がいた。その人がワークショップの講師だった。そして、日本に自生する薬用植物の価値を再発見し啓蒙活動をしている団体が、主催者だった。

山で葛のやぶを横目で見ながら、これだけの生命力をもつ植物を、ひとが活かしていないことに疑問を感じ続けていた。これだけの強靭な繊維をもつ植物が、繊維として生かされていないことが不思議だと思っていた。日本でも、細々ながら葛は繊維として織物に使われていたという話を聞き、思わず心のなかで手を打った。共生してきたんだ。

ワークショップの場には、植物の力に耳を傾け、導かれ、それぞれに導かれたことを実践している人たちが集まっていた。
プラトニックに秘めていた愛も、自分では意識下にあった想いも、それぞれがスピークアウトすればソーシャルなものになっていき、そして社会を変えていく原動力になる。なんともいえない安心感と高揚感に包まれて、そして勇気を得たのは、そのことに気づいたからなのだろう。





私は引き続き、食と料理を通じてアウトプットをするのだろうけど、私の料理の原点にあるものの正体が「植物とひと」だったということが明確になった今(いや本当はずっとわかっていたけれど)、プラトニックからより表現型に、ソーシャルに連帯する方に、愛のありかたも形を変えていく気がしている。そして、私が料理をする際に、それが自然の産物である植物だということを、より意識するようになる気がしている。


私の名刺には「旅するベジ料理研究家」と書いてきたのを、これからは「旅する植物料理研究家」に変えようか、思案している。