かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

おくのほそ道2007 その2 達谷窟毘沙門堂

2007年09月23日 | Tohoku ( Japan )
平泉で、次に訪れたのは、達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)。バスで寄ったところのほとんどは、実は、中学校の遠足で、はるか昔に行ったことがある(はず)。金色堂ぐらいしか覚えていないのだが。でも、ここは、たぶん初めて。



なかなか珍しい佇まいだ。
ここの一番の見所は、磨崖仏。北限だという。



ちょっと、見にくいかもしれないが、顔は、よく残っている。ちょっと荒削りな、素朴なお顔だ。

そもそもこの辺にいろいろ古い遺跡が残るのは、平城京、平安京時代に、未開の地を治めるべく、中央(奈良、京都)が、様々なアクションを起こしたことによる。
この達谷窟は、桓武天皇が、征夷大将軍、坂上田村麿を送り、当時の蝦夷の王を征伐し(801年)、その後、国を鎮めるための祈願のために、創建されたという。
近くには、当時、蝦夷の王が、女こどもを捕らえた滝や、捕らえていた場所、逃げ出したのを捕まえて、大事な髪を剃って縛りつけ、さらし者にしたという岩まで残っている。
あまり、詮索してもしょうがないが、この辺のいい伝えは、中央の意図が、強く影響しているようにも感じる。中国、韓国の文明を享受した中央(奈良、京都)が、未開の地である蝦夷を征伐し(支配下に治め)、日本が一つの国になっていった物語だと思う。
蝦夷(地方)=悪、中央(京都)=善という常識を醸成していったのだろうか。

それにしても、よくもまあ、1200年前に、江戸を通り越して、こんなところまで、来たもんだ。
コメント
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