kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

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新田義貞?・・・ どんな人物か  その2

2014-04-01 11:36:59 | 日記
1-2 義貞の烏帽子親と推定される足利高義は正和4年(1515年)頃に足利氏の家督を継いで、文保元年(1317年)に死去したとされている。この間が義貞の元服時期を推定する根拠となる。

1-3 義貞の育った新田荘は、気象の変化が激越で、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土であった。
また扇状地の扇央部分には灌木、草木が繁茂した広漠な荒地が広がっていて、新田一族が弓術などの武芸を鍛錬する練習場となっており、笠懸野という地名で呼ばれていた。
義貞はそのような風土の中で、笠懸野で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていったと考えられている

1-4 義貞が「売寄進」という方法で、長楽寺に寄進を行うことで世良田氏に代わって長楽寺及び世良田宿の庇護者となってその経済的権益の掌握を目指したものである。
併せて得宗勢力との関係強化を図ったものであったとみられている


[登場]
1-5 新田氏が足利氏の庇護下にあった可能性が高い
  北畠親房の「神宮正統記」に、「東にも上野国に源義貞と言者あり。高氏の一族也。」、増鏡(当時の歴史書)に、「尊氏の末の一族新田小四郎義貞という物」と記されている由縁。
  義貞は、鎌倉倒幕の功により播磨守に任官すするまで、仮名を小太郎と称した