kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

新田義貞?・・・ どんな人物か  その4

2014-04-03 10:31:02 | 日記
4. 南朝方の総大将となる

  足利尊氏の謀反により、南朝・北朝の二つの朝廷にわかれ、義貞は、南朝の総大将となった。
 南朝・北朝内の動乱が開始されると。南朝方の侍大将ととして、箱根竹之下合戦、赤松則村攻めなど攻め、兵庫湊川合戦(blue">楠木正成は戦死の後、援護も手遅れ)、京都合戦などしたが、戦い利あらず天皇を擁して比叡山に立てこもった。3月8日両朝の一時的和解で、越前に下向して金ケ崎城、黒丸城などに拠り、越前守護斯波高経らと抗争していたが、藤島城付近の燈明寺畷で不慮の戦死を遂げた。南朝側は一筋に転戦に次ぐ転戦の末の最後であった。
安養寺明王院(新田郡尾島町)に葬られた


5.  同情される義貞

義貞は優れた武将であったが、身勝手な上司の恣意によって「使い捨て」にされ、越前という冬将軍が吹き荒れる過酷な環境で活動しなければならず、実力を発揮できなかった

かつては凡庸とこき下ろされたが、近年ではそういう人物評が高まりを見せている。環境と上司に恵まれず、使い捨てにされるという境涯は、社畜や派遣切りの被害者を中心とする弱者達の共感を呼び、可哀想な武将として同情されるようになった

一方で成果主義者達からは、どれだけ努力しようと無様な結果しか残せなかったんだから負け犬に変わりないではないと辛辣な評価を受けている

戦前の小学校で歴史教育を受けた爺たちは、新田義貞は楠木正成とともに大忠君愛国者と教えられた。そのイメージが長く残っていた。
しかし戦後の自由社会になれば、見方が変わってきている。その点から、考えて楽しい講義でもあった
 (1992)