小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  1

2008-07-23 20:59:58 | 小説
「前へ習え」とか「右向け右」の号令は、小学生の頃の朝礼や運動会の整列のとき以来かけられたおぼえはないが、あの号令は子供心にも軍隊の教練の応用だろうとは気づいていた。
 その号令が幕末の洋式兵学者である赤松小三郎の翻訳書『英国歩兵練法』に由来していることを、このほど初めて知った。
 赤松小三郎の訳した原書のタイトルは「Field Exercises & Evolutions of Infantry」つまり歩兵の野外演習のあり方の教本であった。
 赤松小三郎は、この教本を最初は慶応2年3月に金沢藩士浅津富之助と共訳で出版している。しかしこの共訳書は未訳の部分があり、全訳本ではなかった。それを今度は赤松単独で完訳し、慶応3年5月に『重訂英国歩兵練法』として出版した。
 版元は薩州軍局である。つまり薩摩藩の依頼で翻訳したのである。赤い表紙なので赤本と呼ばれたが、薩摩はこの赤本の他見を許さず、流出には神経をとがらせていたらしい。
 薩摩藩は赤松に訳述を依頼しただけではなく、実際の練兵をも依頼していた。
 慶応3年9月3日の夕刻だった。赤松小三郎は洛中で暗殺された。ちなみに大政奉還の40日ほど前、さらにいえば坂本龍馬暗殺の70余日前の出来事となる。
 東洞院通りの現和泉町辺りで、赤松は前に立ちふさがった刺客のひとりと対峙する。刺客が抜刀したから、とっさに懐のピストルに手をやったが間に合わなかった。左肩から腹にかけて太刀をあびた。よろめくところを後ろから別の刺客がなぎはらうように斬った。倒れたところを、ふたりの刺客がそれぞれとどめを刺した。
 前から襲った刺客が薩摩藩士中村半次郎、のちの桐野利秋、後ろから斬りつけたのが同じく薩摩藩士田代五郎左衛門である。
 なぜ暗殺の状況がわかっているかというと、当事者の中村半次郎が日記に克明にそのときのことを書いているからである。
 奇妙な克明さなのだが、そのことは後でふれよう。


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