小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

幕末の「怪外人」平松武兵衛 7

2007-11-06 21:46:57 | 小説
 いや、明治10年の公文書にもスネルの名は登場する。
 もしかしたら、これは新発見かもしれない。
 吉川弘文館『国史大辞典』の「スネル」の項で、明治「9年以降の事蹟は詳かでない」と担当の田中正弘氏は記しているからだ。
 今回のブログでは田中氏のスネル研究、とりわけ「武器商人スネル兄弟と戊辰戦争」(宇田川武久編『鉄砲伝来の日本史』所収・吉川弘文館)に負うところが大きいけれど、田中氏はここでも明治10年の事蹟には言及されていない。
 ともあれ、エドワルド・スネルは明治5年には新政府に対して損害賠償を訴えている。
 米沢藩、会津藩など旧藩の武器代未払い分と新潟港陥落のおりに官軍に略奪された物品代あわせて12万5000ドルの償却要求であった。翌年には全額とまではいかなかったが、4万ドルの賠償金は手にしている。
 明治5年1月の陸軍省大日記によれば、「元大泉県より英す子ルエトワルトへ銃器買い入れ約定折柄廃藩置県に付右銃器買上願の件」という文書が宮内省兵部省宛に出されている。
 どうやら小銃620挺がロンドンを出港、キャンセルできない事態となっており、大泉県つまりもとの庄内藩の発注分を新政府が引き受けたもののようである。
 明治6年7月1日にはエドワルド・スネルは築地居留地4番の所有権利をあるイギリス人から譲り受けていた。「居留地台帳」によれば、「シュネル(オランダ)に譲渡」となっている。
 居留地4番といえば、現在の築地7丁目であろう。私の住む街から勝鬨橋を渡って右折すればすぐのところにエドワルドは住んでいたのであった。こんな近くにいたのか、と奇妙な親近感をおぼえて、その消息を詳しく知りたくなり、私は明治の公文書を漁りはじめた。
 そして明治10年の記録の中に、彼を見つけたのである。


追記:外務省史料と陸軍省大日記の史料を混同していたので一部文章を訂正した。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。