小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

歌びとと二・二六事件 3

2008-05-06 15:47:00 | 小説
 栗原の同志つまり青年将校たちの部下には、農村出身の兵士たちが多かった。大恐慌下とりわけ農村の窮乏はひどかった。
 斎藤瀏は栗原からこんな話を聞かされている。
「自分の中隊に満州事変で両手両足を失った兵がいました。東北の生家に帰った彼に会いに行ってみたら、彼の最愛の妹が遊女になって一家の凋落を支えていました。兵はなぜ自分は死ななかったのかと泣きました」
 そう語る栗原も涙を流していた。この話は史も聞いていて、もらい泣きして少女のように嗚咽をあげた。
 栗原の話に続けて、別の青年将校は次のようなエピソードを語った。
 ある少尉が初年兵の家族の聞き取り調査をしたときのこと。ひとりの兵が「姉は…」と言ったきり口をつぐみ、みるみる目にいっぱい涙をためて喋れなくなった。少尉はすべてを察した。「もうよい、なにも言うな」というのが精一杯だった。食うや食わずの家族を後に、国防のために命を散らす者の心中はいかばかりか。この兵に注ぐ涙があったらば国家の現状をこのままにしてはおけないはずだ。ことに政治の要職にある人は、と少尉は語り、栗原らの同志になったという。
 さらに斎藤はこんな話も聞いた。
 隊内で日夜生死をともにしている戦友の金を盗んだ兵がいた。盗んだ金は故郷の食うや食わずの母親に送ったのである。これを発見した上官は、ただその兵を抱いて声を上げて泣いた。
「おじさん、こういう部下たちの実情を知ってください」
 と栗原らは訴えたのである。
 決起する青年将校たちの行動に殉じようという「歌人将軍」の決意が先に紹介した歌になったのである。
「この若人とわれ行かんかな」 


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