小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

歌びとと二・二六事件  4

2008-05-07 16:49:34 | 小説
 昭和11年(1936)2月26日早朝、決起した青年将校たちは下士官・兵を率いて、時の首相をはじめとする重臣たちを襲撃した。
 決起の趣意書にいわく。「君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ彼ノ中枢ヲ粉砕スルハ我等ノ任」と。
 帝都を震撼させた反乱事件だった。
 決起部隊の参加人数を以下に記す。将校20名、准士官2名、見習医官3名、下士官89名、二年兵333名、初年兵1,027名、ほかに守衛隊として出勤したもの75名、民間人の参加者9名を加えて、参加総人数は1,558名となる。
 彼らは総理大臣官邸を襲撃して岡田啓介首相と誤認して弟の松尾大佐を殺害、ほかに4名の巡査を即死させた。また斎藤実内大臣私邸および高橋是清大蔵大臣私邸を襲って、両氏を殺害、さらに鈴木侍従長官邸を襲った部隊は侍従長に重傷を負わせた。官邸にいた巡査2名も負傷している。ついで渡辺錠太郎陸軍教育総監私邸を襲撃、この陸軍3長官のひとりを殺害した。
 これらは朝の5時から6時までの間のことで、現場はいずれも都内。しかし、神奈川の湯河原温泉伊藤旅館にいた牧野伸顕前内大臣も襲撃対象だった。こちらは巡査の抵抗にあって目的は果たせなかったが、その巡査は殉職している。
 決起部隊の一部は、午前9時近くから10時頃までには、各新聞社に姿を現わしている。
 朝日新聞社では活字ケースをひっくりかえすなど損害約3万円を与えたらしい。マスコミに決起の趣意書の掲載を要求したのであった。
 事件のことが報道されたのは、午後7時過ぎだった。一部の夕刊がニュースを伝え、東京に戦時警備令が発令されたことをラジオが報じた。
 日付が変わって27日深夜午前1時30分、岡田内閣が総辞職。午前3時50分には東京市に戒厳令が交付された。
 昭和天皇が奏勅命令を裁可したのは午前8時20分だった。
 その奏勅命令が発令されるのは28日の午前5時8分である。
 さて、クリコこと栗原中尉は首相官邸にいた。
 官邸の電話を使って外部と連絡を取っていた。しかしその電話は戒厳司令部によって盗聴されていた。荏原局3368番にかけられた電話が傍受録音されている。
 栗原は電話の相手に「向こうもとにかく奏勅命令でくるでしょうから」と語っている。その局番の電話の持主は斎藤瀏だったと明らかにしているのは中田整一『盗聴 二・二六事件』(文芸春秋)である。 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。