小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

恋闕の人・真木和泉  2

2008-10-27 15:43:43 | 小説
 奈良本辰也監修の『図説 幕末・維新おもしろ事典』(三笠書房)という本がある。その中に「討幕を最初に打ち出したのは誰か?」というコラムがあって、真木和泉の名があげられている。
 真木は「文久元年(1861)、『義挙三策』を書き、倒幕の指導理念を打ち出した。尊攘志士のなかではもっとも早く倒幕意見を主張した人物である。
 その三策とは次のようなものである。
 上策=諸侯に挙兵を勧める。
 中策=諸侯の兵を借りて、挙兵する。
 下策=義徒によって挙兵を断行する。
 上策、中策では、その兵力をもって大坂城の占拠をとき、下策では、京都攪乱戦術をおしすすめ、天皇を比叡山に移すべしと説いている」
 と説明している。
 もとより学術書ではないが、この記述は正確ではない。
 真木和泉は『義挙三策』よりも早く、その著書『大夢記』において具体策を打ち出していた。天皇みずから幕府親征の兵をあげて東征し、箱根で幕吏を問責、大老以下に切腹を命じ、徳川家茂を甲駿の地に移し、親王を安東大将軍として江戸城に居らしめるというのが『大夢記』の骨子であった。
 これが書かれたのは、文久元年より3年前の安政5年のことだったのである。真木和泉は46歳だった。
 安政5年といえば、たとえば坂本龍馬はまだ24歳、江戸の千葉道場で剣術修行から帰国する年だ。土佐勤王党に加盟したのが文久元年であった。
 坂本龍馬が尽力した薩長同盟は、よく知られているように慶応2年(1866)のことであるが、それよりはるか前に真木和泉は薩長同盟の必要性をみきわめていたようである。
 すなわち、大名に挙兵を勧めるという考え方の、その大名つまり雄藩には薩摩と長州が視野に入っていたのだ。
 文久元年に真木が平野國臣を介して、薩摩藩に『薩候に上る書』など三篇を献呈している。その三篇は残念なことに現存していない。しかし、雄藩同盟の必要性を説いたものだったと思われる。


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