安重根(アン・ジュングン)は孝明天皇を暗殺したのは伊藤博文だと思っていたようだが、巷間に流布されているのは岩倉具視犯人説である。
孝明天皇の典医たちのなかに、伊良子光順という人物がいた。この人物の日記を検討した医史学の佐伯理一郎博士は、昭和15年7月に大阪の学士会クラブで開かれた日本医師学会関西支部大会で、その日記が「岩倉の天皇毒殺を裏書する貴重な傍証である」と論じている。その日の大会には伊良子光順の曾孫の伊良子光孝氏も出席していた。
ところで、岩倉具視の妹は宮中で女官をしていた。その妹を使って毒を盛ったというのが、大方の推理である。
妹というのは堀河紀子のことだ。紀子は孝明天皇の寵をうけていたから、ただの女官ではなかった。岩倉には以前にも天皇暗殺未遂の噂が立ったことがあった。和宮降嫁をめぐって天皇と意見が対立したとき、天皇の筆先をなめる癖を利用して、筆先に毒を塗ったというのである。尊攘派の浪士たちの間でささやかれていた噂らしいが、孝明天皇の急死で、そのおりの噂が再燃したということもありえただろうと思われる。
のちに毒殺説をひるがえすが佐々木克氏の『戊辰戦争』(中公新書)の一節を引用しておこう。
「天皇の死因については、表面上疱瘡で病死ということになっているが、毒殺の疑いもあり、長いあいだ維新史の謎とされてきた。しかし、近年、当時天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見るかぎり明らかに『急性毒物症状である』と断定された。やはり毒殺であった。
犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かびあがってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、(略)親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。(略)直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかであろう」
孝明天皇の典医たちのなかに、伊良子光順という人物がいた。この人物の日記を検討した医史学の佐伯理一郎博士は、昭和15年7月に大阪の学士会クラブで開かれた日本医師学会関西支部大会で、その日記が「岩倉の天皇毒殺を裏書する貴重な傍証である」と論じている。その日の大会には伊良子光順の曾孫の伊良子光孝氏も出席していた。
ところで、岩倉具視の妹は宮中で女官をしていた。その妹を使って毒を盛ったというのが、大方の推理である。
妹というのは堀河紀子のことだ。紀子は孝明天皇の寵をうけていたから、ただの女官ではなかった。岩倉には以前にも天皇暗殺未遂の噂が立ったことがあった。和宮降嫁をめぐって天皇と意見が対立したとき、天皇の筆先をなめる癖を利用して、筆先に毒を塗ったというのである。尊攘派の浪士たちの間でささやかれていた噂らしいが、孝明天皇の急死で、そのおりの噂が再燃したということもありえただろうと思われる。
のちに毒殺説をひるがえすが佐々木克氏の『戊辰戦争』(中公新書)の一節を引用しておこう。
「天皇の死因については、表面上疱瘡で病死ということになっているが、毒殺の疑いもあり、長いあいだ維新史の謎とされてきた。しかし、近年、当時天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見るかぎり明らかに『急性毒物症状である』と断定された。やはり毒殺であった。
犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かびあがってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、(略)親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。(略)直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかであろう」