小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎暗殺前後 1

2014-02-19 16:01:27 | 小説
 上洛した清河八郎ら浪士組に、関白から江戸に帰れという命令が下ったのは、文久3年3月3日のことだった。
 この東下の命令は浪人奉行鵜殿鳩翁と同取締役山岡鉄太郎宛になっていた。
 生麦事件の処理が難航し、横浜にイギリスの軍艦が渡来しているから、いつイギリスと「兵端を開くやも計り難く」浪士は「速に東下して粉骨砕身可励忠誠候也」というものだった。
 だから清河八郎らは3月28日には江戸に帰った。(この命令に反して京都に残留した者たちが、のちに新選組となるのは言わずもがなである)
 江戸には浪士組が上洛したあとで、応募してきた100人を越える浪士たちがいて、窪田治部右衛門、中条金之助(この人物名を記憶しておいてほしい)などが取扱に任命されていたが、帰府浪士と合併して、本所三笠町の旗本小笠原加賀守の空屋敷を屯所とすることになった。
 もっとも清河八郎は山岡鉄太郎の家に寄寓し、同志の石坂周造と村上俊五郎は馬喰町の大松屋にいることにした。
 さて、幕府は学習院国事掛から直接に攘夷の朝旨を賜っている浪士組の存在は、うとましくなっていた。
 尽忠報国の思想集団としての浪士組の実体を骨抜きにする必要があった。つまり浪士組を抑圧する口実が必要だった。
 大川周明は八郎暗殺の原因のひとつに「偽浪士問題」をあげているが、その大川周明の論述を叩き台にして、暗殺側の動きを探ってみることにする。
 あらためて問いを発してみよう。
 八郎はなぜ暗殺されねばならなかったのか、なぜ暗殺日はあの日でなければいけなかったのか。(続く)


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