小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  3

2008-04-09 21:21:44 | 小説
 田中彰氏の『幕末史の研究』(吉川弘文館)の第5章「近代統一国家への構築」には「ジョセフ・ヒコと国家構想」あるいは「ジョセフ・ヒコと明治維新」という項目があって、田中氏はこう述べている。

「…従来は坂本竜馬の『船中八策』にみられる綱領の背後には、間接的なジョン万次郎との関係が指摘されていたが、国家構想に関心の深かったジョセフ・ヒコと竜馬との密接な交流のほうが、より大きな影響をもったであろうことを、今後の課題として本章では協調した」

 なにより彦研究の第一人者である近盛晴嘉氏に『竜馬の船中八策の議院制はジョセフ彦から学んだ』という論稿(『浄世夫彦』NO.32)がある。
 彦について語る場合、両氏の見解を無視するわけにいかないから、まず彦の国家構想と、龍馬と実際に密接な交流があったかどうかを検証しておこうと思う。
(ちなみに学者が「竜馬」と表記することに違和感をおぼえつつ、私は龍馬で通す)
 田中氏が「国体草案」と称する彦の建言草稿は、表紙に「草稿」と墨書されているのみ(写真参照)で、ペン書きで上部に書き込みがある。英文はこう綴られている。

Written by self in 1865
with intention to present it to tha
Tokugawa gov't. but being in
presentation it has been refused to
receive it

 その「1865」は「1864」を訂正したように見える。
 1865年は慶応1年であり、1864年ならば元冶1年である。
 奥書には「西洋紀元千八百六十五年五月初六 亜米利加 ヒコ」
とあり、英文に見合うような文言が付記されている。であるならば1865年が正しいのか。
 ところが、この奥書きがあやしい。彦の筆ではなさそうなのである。 


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2 コメント

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田中彰氏の著書のタイトルほか・・・ (RYO)
2011-09-04 18:10:25
鏡川伊一郎先生
こんにちは。RYOと申します。

現在、慶応3年5月14日付の肥後熊本藩士・荘村助右衛門(荘村省三)から肥後藩の坂本彦兵衛宛てに書かれた書状(報告書)【細川家編纂所・伊喜見 謙吉/編『改訂肥後藩國事史料』巻七[侯爵細川家編纂所/昭和7年(1932年)]所収、404-406頁掲載】の内容について、色々調べております。

鏡川先生の、この『アメリカ彦蔵と呼ばれた男』1~完(14)まで、何度も拝読させていただきました。新たな発見があり、大変素晴らしい内容で、感嘆いたしております。

ただ、幾つか気になる箇所がございましたので、念のため、ご報告させていただきます。

【1】以下の部分の書名、第五章タイトル、項目名についてほか。
----「アメリカ彦蔵と呼ばれた男 3」より《引用》----
田中彰氏の『幕末史の研究』(吉川弘文館)の第5章「近代統一国家への構築」には「ジョセフ・ヒコと国家構想」あるいは「ジョセフ・ヒコと明治維新」という項目があって、田中氏はこう述べている。

「…従来は坂本竜馬の『船中八策』にみられる綱領の背後には、間接的なジョン万次郎との関係が指摘されていたが、国家構想に関心の深かったジョセフ・ヒコと竜馬との密接な交流のほうが、より大きな影響をもったであろうことを、今後の課題として本章では協調した」
----《引用終わり》----

只今、手元にある同著(*)を確認しながら、書かせていただいているのですが、

◎書名は、『幕末史の研究』ではなく、
『幕末維新史の研究』が正しいかと存じます。

◎第五章は、
「近代統一国家への構築」ではなく、
「近代統一国家への模索」が正しいようです。

◎第五章の第ニ項は、
「ジョセフ・ヒコと国家構想」ではなく、
「ジョセフ・ヒコの国家構想」が正しいようです。

◎同著(235頁、2行目~)から引用された部分については、
「従来は坂本竜馬の「船中八策」にみられる綱領の背後には、間接的なジョン万次郎との関係が指摘されていたが、国家構想に関心の深かったジョセフ・ヒコと西南雄藩側との接近によるヒコと竜馬との密接な交流のほうが、より大きな影響をもったであろうことを、今後の課題として本章では強調した。」
が正しいです。
具体的には、
・「西南雄藩側との接近によるヒコと」
という部分が抜けているのと、
・最後の「協調」は誤字で「強調」が正しいかと思います。

(*)以上、田中彰/著『幕末維新史の研究』(日本史学研究叢書)[吉川弘文館/平成8年3月1日第一刷発行]を参照。

【2】以下のジョセフ・ヒコによる英文のうち、“tha”の綴りは、原文のママでしょうか。
---《引用》---
Written by self in 1865
with intention to present it to tha
Tokugawa gov't.
---《引用終わり》---
"the"が正しいのではないかと思い、念のため、お伺い、確認させていただきました。

【3】念のためですが・・・
「草稿」(国体草案)の奥書があやしいということについては、
田中彰氏の著作『幕末維新史の研究』第五章の210ページ、後ろから6行目~に於いても、佐藤孝氏「ジョセフ・ヒコの日本改革建言草案」(『横浜開港資料館紀要』第四号)を参照して、以下のように指摘されています。

以下、『幕末維新史の研究』第五章、第二項「ジョセフ・ヒコの国家構想」、210頁の後ろから6行目の途中より引用します。
----
この「国体草案」は、慶応元年、外国奉行阿部正外(豊後守)に提出されたが、これまた「当時之形勢にては何分難相用趣」として差し戻されたものとされている。しかし、阿部の外国奉行在任期間は文久二年閏八月から翌三年四月までで、提出時の阿部は老中職にあり、第二次幕長州戦の責任者として幕府軍の江戸進発を直前にひかえ、その準備に忙殺されていたから、奥書にはくいちがいがあり疑問が残る、とされている(佐藤孝「ジョセフ・ヒコの日本改革建言草案」<『横浜開港資料館紀要』第四号)
----
その直後には、改行されて、以下のように「そのことはいまはさておくとして…」と書かれています。
----《同著、211ページ1行目より引用》---
 そのことはいまはさておくとして、この場合、草案の表紙に英文で書かれたヒコのメモのように、これがヒコ自信によって書かれ、徳川幕府要路に提出されたものとするならば、すくなくともかつての漂流民ヒコが、幕藩体制の末期、日本の新しい統一国家構想を彼の世界的視野のなかで立案したものとして注目してよいだろう。
----《引用終わり》----

大変失礼いたしました。
まことにご無礼かつ差し出がましいかと存じますが、気になりましたので、コメントさせていただきました。

今後益々の鏡川先生のご活躍をお祈り申上げます。

RYO
返信する
お礼 (鏡川伊一郎)
2011-09-05 04:54:56
RYOさん、すべてご指摘のとおりであります。誤りをただしていただき感謝いたします。後日、訂正しておきたいと思います。
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