小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

吉井勇の歌と土佐  2

2009-12-20 21:23:26 | 小説
 吉井勇の祖父は、薩摩の吉井幸輔であった。龍馬となにかと縁の深かった人物だ。龍馬が暗殺されたときも、近江屋に駆けつけていた。
 吉井勇は『私の履歴書』(日本経済新聞社編)で、こう書いている。

「祖父の名は友実、前名を幸輔といって、明治二十四年四月六十四歳で世を去ったが、いわゆる維新の志士の一人であって、西郷隆盛や大久保利通とともに国事に奔走した仲間である。最後は枢密顧問官になって没したのであるが、私はそういった官職の高かった祖父よりも、子供の時代に父から聴かされた『思ひきや』の歌が、いまだに思い出されるように、むしろ南画を描いたり歌を作ったりした祖父の方に親しみが感じられる」

「思ひきや」というのは、吉井幸輔が戊辰戦争後に詠んだ次の歌のことである。
 
  思ひきや弥彦の山を右手(めて)に見て立ちかへる日のありぬべしとは

 その祖父の歌は、勇の父の幸蔵が酔うと繰り返し歌って、幼い勇に聞かせたのだという。このように祖父のエピソードは、勇はたぶん父を通して知ったはずである。このことは後で書くことと関連するので、おぼえておいていただきたい。
 敬愛する祖父のことを吉井勇は、数多くの歌にしている。

 おほちちの戊辰のころの胸痛み心いたみを思ひつつぞ病む

 祖父(おほちち)の葬りの列にわれありて赤坂見附は過ぎにけるかも

 吉井勇が祖父の葬式の行列に加わっていたのは、彼がまだ6歳のときだった。

 六歳(むつ)の秋祖父(おほちち)の死に会ひてより無常のおもひ知りしならぬか

 吉井勇は自分が歌人となったのは、祖父の間接的な影響ではないかと思っていたふしがあるが、さて、その祖父吉井幸輔と龍馬の交流に触れておかねばならない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。