小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

孝明天皇 その死の謎  18

2007-07-03 23:15:37 | 小説
 作家の山岡荘八氏は、家茂謀殺説を信じていたらしい。「宮中からさし回された」医師の薬を飲んで、3、4日目に、胸のあたりに紫の斑点を出して、ひどく苦しがって、御小姓組番頭に骨の折れるほどしがみついて、息を引き取ったというエピソードを書きつけている。
 御小姓組番頭というのは、蜷川相模守のことである。その子孫である日本赤十字社の顧問であり、法学博士であった蜷川新氏は、こう述べている。
「策士らは、本来誠実の人ではない。いずれの時代においても策士の心事は常に陰険極まるものである。だから薩長および公卿の策士らが(ひそかに共謀して)当年の政治上の二頭首、すなわち天皇と将軍を除こうと策謀したのは必然の帰結である」
「私の父は小姓組頭として家茂にしたがって従軍していたので、その真相をよく知っていた。遺骸は江戸に送られた。和宮は遺骸に礼拝することを希望されたけれども、毒殺の痕が顔面に気味悪くあったために、老中は納めてある棺を開くことを許さなかったという。私の母がこの事件を私に伝えている」
 見られるとおり家伝である。蜷川家に伝わる口伝をどう解釈するか、無視するか重要視するか、歴史研究家はたぶん軽視してはばかりないだろうが、ただ次の文章に対しては、私などは研究家のコメントがほしいと思う。
「「維新史料編纂委員をしていた植村澄三郎という人がいた。その人が私に、『それは本当だよ、岩倉がやったのだ、岩倉は二度試みている』と言ったことがある」
 どうやら、それは本当だよというのは孝明天皇謀殺の件であるらしい。
(ちなみに、余談ながら格闘家の武蔵氏は蜷川博士のひ孫であるらしい)     


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