小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

凌霜隊の悲劇  6

2008-07-01 21:45:43 | 小説
 城内に入った『心苦雑記』の筆者・矢野原与七は書いている。
「さて、日向内記隊は白虎隊とて若年血気のもの五十人也」そして「白虎隊、凌霜隊持場は四五十間にして土塀内へ胸壁を築き、深さ三尺程掘り上げ、この土を以て土手となし、はさまはさまをめいめいの持場を決め、敵来らば防戦すべしと待ち懸かる」
 この作業には凌霜隊総がかかり、つまり隊長の朝比奈茂吉も参加したようだ。山川健次郎に強い印象を残した光景はこれであろう。
 白虎隊はさておき、矢野原が感心しているのは婦女子の参戦である。髪を切り襠高袴(まちたかばかま)に一刀を帯し、勇ましい恰好をした女兵たちを「この藩の女兵は天晴れの働き也」と評している。
 城に駆けつけなかった女性たちは老母を刺し殺し、自宅に火をかけて自害したものあり、と彼は聞かされたらしい。「後世賞すべきもの也」と書きつけている。
 それに反して、だらしのない家来たちがいたらしい。200石・300石、なかには500石くらいの家臣が200余人(注)も山中に逃げたというのである。「禄盗人というべし」と矢野原は罵っている。
 当の矢野原はたかだか6石取り(慶応3年には7石になってはいるが)の下級武士だった。郡上藩では長く右筆をつとめており、戦争の記録者としてはまさに適任者であった。
 当時39才で、彼からすれば白虎隊の隊士は息子のようなものだった。だから「若年血気のもの」と形容することもできたのである。
 少年と婦女子が城を守っているのである。 
 9月14日5つ時頃、官軍は七日町の方から5、6門、小田山の方から5、6門の大砲を発射、と矢野原は冷静に記録している。
 本丸、西出丸その他どこということなく、間断なく烈しく着弾した。
 その厳しさは大雷の落ちかかるようだった、と書き、「諸隊の窮すこと言語に絶し、地獄の責めとはこの事ならんかと一統申しける」
 と伝えている。
 しかし、地獄の責めは、むしろこれから始まるのであった。



(注)星亮一氏によれば、「200人という数字は会津藩の記録には見られない。勇武を誇る会津藩としては衝撃の数字である」(前掲『偽りの明治維新』)としている。 


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1 コメント

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凌霜隊の悲劇  6 (パトリオット)
2014-01-14 07:56:11
日向内記は余りよく言われてないですね。

>>200石・300石、なかには500石くらいの家臣が200余人(注)も山中に逃げたというのである。
見合った働きをしていない。

>>七日町の方から5、6門、小田山の方から5、6門の大砲を発射
アームストロング砲は意外にもたいしたはあ多r働きをしていないそうで。
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