小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

最後の将軍の弟  5

2009-01-25 21:03:27 | 小説
 ざて、そのモンブランについては当時の日本名誉総領事エラールがパリから駐日フランス公使ロッシュに宛てた手紙(注)で酷評していた。
「…薩人一行の方にては、モンブランの世話にて、総て可笑に堪へざることのみを為来れり」と彼は書いている。そしてモンブランは陸軍中将を自称し、「薩之大帯を肩より斜めに負ひ」あわせてレジョンドヌール勲章を帯び、「其体を見るに一個の犯客に似たり」と断じているのだ。
 さらに「新聞紙中に妄論を挙け、カション之曖昧たる不正論を信したるを以て」などとあげつらい、「モンブランも過度の事をなせし上、近々日本へ赴くとの由なり。其許も彼に対し如何なる処置をなすへきや、其方を知り給ふ様、彼の所業・談話等の事迄、余より委細其許へ申送るへし。謹言」と結んでいる。
 ここでカションとあるのはナポレオン三世と昭武の会見で通訳をしたメルメ・ド・カションのことである。そのカションは1867年5月1日発行の雑誌『フランス』で自分の覚書を暴露している。(以下は前掲の鳴岩氏の著書からの孫引きである)
「今日までわれわれが日本帝国ととなえてきたのは世襲大名の大連邦であって、将軍はその一員で薩摩、長州、佐賀その他の大名とともに同等の資格の者である。(略)江戸の大君はヨーロッパと日本間のあらゆる通商の仲介者となろうとしているが、反対に他の大名たちはヨーロッパ諸国との直接取引を望んでいる。薩摩の大名がそれを率先してしめした。彼が万国博覧会において独立の主権を強化した事実はわれわれが実際に見たところである」
 たしかにカションの言うとおり、パリ万博で示した薩摩の態度は、昭武ら幕府使節団、いや幕府そのものに深甚な打撃を与えたのだが、少年昭武はまだそのことに気づいてはいなかった。

(注)宮地正人・監修『徳川昭武幕末滞欧日記』(松戸市戸定歴史館)所収の翻訳書簡で日付は1867年8月10日、慶応3年7月11日付となる)


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