小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

曽我兄弟の仇討 16

2006-09-03 12:29:53 | 小説
 頼朝が死に臨んで、畠山重忠に子孫守護のことを頼んだという話がある。主従の信頼関係を強調する話であるが、この通説はすこぶるあやしい。重忠は頼朝の子孫を守らなかった。あるいは守れなかったからだ。
 頼朝の子、源頼家が修善寺に幽閉されたとき、重忠は何をしたのか。何もしなかった。というより、頼家の舅の比企能員と一族の討伐に率先して功績のあったのは、ほかならぬ重忠であった。もしもほんとうに重忠が頼朝から「息子たちを頼む」と遺言されていたら、彼の性格からして、こんな真似はしなかったはずだ。それこそ身命を賭して頼家を守ったであろう。
 ところで重忠は、妻の父である北条時政によって、やはり「謀反人」として討たれた。武蔵の国二俣川で北条軍数万騎に襲われるのである。対する重忠軍130騎。ほとんど戦にならない戦力差があるのに、激闘4時間余。なんという戦だろう。勝った北条軍の指揮者のほうが、むしろ泣いた。重忠の謀反が無実であるということは、130騎という軍勢の少なさで、最初から分かってもいたのだった。
 重忠のことに寄り道して、曽我兄弟のことを忘れたわけではない。重忠が北条時政に討たれたということを明記して、時政と曽我兄弟の関係に話を移そう。
 実はあの仇討の夜、曽我兄弟は北条時政の宿舎をも狙ったのではないかという説がある。曽我五郎時致の「時」は時政の「時」にちなみ、時政は五郎の元服時の烏帽子親だった。その北条時政を、なぜ兄弟は狙うのか。



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