「文」の概念は儒教(学)からきている。
儒教を体系化した孔子を祀る廟を「文廟」ともいうけれど、その「文」である。
儒教国家の中国の官吏登用試験「科挙」には文科挙と武科挙のふたつのコースがあった。文官コースがエリートのためのものであって、武官コースでは高級官吏になることは難しかった。いずれにせよ、科挙で問われるのは、もっぱら儒学の素養であった。その儒教的イデオロギーにおいては、「文」があくまでも上位概念であって、「武」が主導権を握るなどということはありえなかったはずだ。
わが国では、科挙の制度は半島やベトナムのように採用はしなかったが、「文武」という概念は中国から輸入したのである。
王朝貴族にかわって、武士が政権を握った時代が幕末の王政復古まで長く続いた、と私たちの歴史的常識は認知されており、武士の台頭つまり「武者の世」の始まりが、ここで扱っている時代だとされてきた。では武士とはなにか。荘園や国衙を守るための武装農民、つまり在地領主が武士となったというのが、これまでの定説であるらしい。拳銃を腰につるしたカウボーイが牧童ならば、わが国では帯刀した田童すなわちフィールドボーイが武士ということになる。(むろん私の勝手な造語である)これらの定説はいまやあやしい。
そのことが言いたくて、文武の概念だとかに、私はこだわっている。源氏や平氏の出自が農民ではないことは、前にも書いた。そして、源平の台頭期には貴族たちも武装していたことを思い起こすべきだと感じている。
かの藤原信頼は甲冑に身を固め出陣していた。
儒教を体系化した孔子を祀る廟を「文廟」ともいうけれど、その「文」である。
儒教国家の中国の官吏登用試験「科挙」には文科挙と武科挙のふたつのコースがあった。文官コースがエリートのためのものであって、武官コースでは高級官吏になることは難しかった。いずれにせよ、科挙で問われるのは、もっぱら儒学の素養であった。その儒教的イデオロギーにおいては、「文」があくまでも上位概念であって、「武」が主導権を握るなどということはありえなかったはずだ。
わが国では、科挙の制度は半島やベトナムのように採用はしなかったが、「文武」という概念は中国から輸入したのである。
王朝貴族にかわって、武士が政権を握った時代が幕末の王政復古まで長く続いた、と私たちの歴史的常識は認知されており、武士の台頭つまり「武者の世」の始まりが、ここで扱っている時代だとされてきた。では武士とはなにか。荘園や国衙を守るための武装農民、つまり在地領主が武士となったというのが、これまでの定説であるらしい。拳銃を腰につるしたカウボーイが牧童ならば、わが国では帯刀した田童すなわちフィールドボーイが武士ということになる。(むろん私の勝手な造語である)これらの定説はいまやあやしい。
そのことが言いたくて、文武の概念だとかに、私はこだわっている。源氏や平氏の出自が農民ではないことは、前にも書いた。そして、源平の台頭期には貴族たちも武装していたことを思い起こすべきだと感じている。
かの藤原信頼は甲冑に身を固め出陣していた。