小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

藤村「近親相姦」事件 1

2007-08-27 21:03:56 | 小説
 ひとつ屋根の下に、妻を失った42才の男とうら若い20才のお手伝いの娘がいる。
 5月の夜更けのことだった。つつしみのない書き方をしなければならないが、男は女の部屋をのぞき見て、寝乱れた姿に理性を喪失した。
 よくある話といえばそれまでだが、男と女はただの主人とお手伝いという間柄ではなかった。叔父と姪の関係だった。
 男の名は島崎藤村、女は島崎こま子だった。藤村の兄の娘だった。

「私は手や足をふりまはして闘ってゐた。私はひどく打撃を受けた脚を感じた。手を感じた。顔を感じた。けれども私は、夢の中に人生の苦闘をしてゐるだけだった。(略)私が眼をあいたとき、叔父の顔がひどく大きく見えたのに驚いた。(略)私はきっと、脚や手をはだけてゐたのだろう。叔父は二階に上がって行った。それがなんであったか分らない。さうしたことが、意識されて行ったのはそれからであった。わたしの前に展(ひら)かれた未知の世界は叔父にあっては、狂ひであったらう。私にあっては偶然な不可解な夢としか思へないことだった。がそれが私の人間として苦悩する孤独を悲しむ心と変って行った新しい生涯が始ったのだ」

 のちに、といっても24年も経ってからだが、女はこんな切ない回想文を書いた。(長谷川こま子『悲劇の自伝』婦人公論1937年5月号~6月号)
 風化に耐えた記憶が痛々しく、彼女の受けた衝撃がよく伝わる文章である。
 どうつくろっても、藤村は夜這いで姪のこま子を犯したのである。けれども、男と女のあいだには余人の理解しがたいところがある。ふたりは愛し合うようになるのである。むろん順序が逆のようでも性から始まる愛もないことはない。
 常識を超えた破倫は、この男女をどんな運命にいざなったのか。


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