垂仁天皇の御代にタジマモリという男がいた。天皇は彼を常世の国に遣わして、トキジクの木の実を求めさせた、と『古事記』は伝えている。『日本書紀』では「非時香菓」と書いて「ときじくのかくのみ」とよませている。常世にしかない果実で、「今の橘のことである」と注釈する点で、記紀は一致している。
さて、タジマモリは、この常世の橘をみごと持参して帰朝するのであるが、そのとき天皇はすでに亡く、御陵に眠っておられた。タジマモリの無念はいかばかりであったろうか、彼は御陵の入口で木の実をささげて絶叫する。「常世の国のトキジクの木の実を持ち参上(まいのぼ)りて侍(さもら)う」と。ついには慟哭と悲しみのあまり悶死してしまう。『日本書紀』は「おらびなきて自ら死(まか)れり」と記すから、あるいは殉死したのかもしれない。群臣はみなもらい泣きしたとある。
ところでタジマモリの持ち帰った木の実は、記紀の注釈のように「今の橘」とすると、おかしなことになる。橘ならば、倭国にも自生していたという記録(例の魏志倭人伝)があるからである。酸っぱくて食べられない橘ではなく、たぶん、みかんか橙のことなのであろう、というのが植物学者の見解である。
私なりにあれこれ文献にあたっていて、橙を「たちばな」とよませる例のあることを知った。そう、橙こそ「トキジクの木の実」にふさわしい、とひらめいた。橙は不老不死の果実とみなされていたのではないだろうか。いまも橙を正月に飾るのはなぜか。代々という語呂合わせの縁起物というより、遠い時代に不老長寿の果物と見なされた名残りではないのか。
江戸時代の百科事典ともいえる『和漢三才図会』によれば、橙は俗に「かふす」と呼ばれたとある。蚊熏(かぶす)の意味である。現代の柑橘類のカボスの語源もこれであるが、乾燥した橙の皮は蚊遣りの香になった。古代ではマラリヤを避けるために蚊のこない標高を選んで高地性集落が発達したほどだ。衛生状態の良くなかった昔、橙は蚊遣りという面でも、人々の健康と長生に貢献したわけだ。ちなみに橙皮は健胃剤や消化不良の薬としても利用され、中国では薬用として栽培されていた。
トキジクつまり時の経過を否定する言葉は、不老長寿を意味しており、それでこそタジマモリの痛恨の理由が理解できるというものである。垂仁天皇の求めた不老長生の果実は、間にあわなっかのだ。だからこそタジマモリは自死にいたる自責の念にかられたのである。 その橙の原産地はインド、ヒマラヤ地方であった。わが国への来歴にはオレンジ・ルートというべきものがある。むろん最終の経由地は済州島である。
話を戻さなければならない。タジマモリが帰還したのは丹後半島の北東端、浜詰海岸の夕日が浦であった。彼の帰還にちなんで「常世浜」とも呼ばれたという。
さて、タジマモリは、この常世の橘をみごと持参して帰朝するのであるが、そのとき天皇はすでに亡く、御陵に眠っておられた。タジマモリの無念はいかばかりであったろうか、彼は御陵の入口で木の実をささげて絶叫する。「常世の国のトキジクの木の実を持ち参上(まいのぼ)りて侍(さもら)う」と。ついには慟哭と悲しみのあまり悶死してしまう。『日本書紀』は「おらびなきて自ら死(まか)れり」と記すから、あるいは殉死したのかもしれない。群臣はみなもらい泣きしたとある。
ところでタジマモリの持ち帰った木の実は、記紀の注釈のように「今の橘」とすると、おかしなことになる。橘ならば、倭国にも自生していたという記録(例の魏志倭人伝)があるからである。酸っぱくて食べられない橘ではなく、たぶん、みかんか橙のことなのであろう、というのが植物学者の見解である。
私なりにあれこれ文献にあたっていて、橙を「たちばな」とよませる例のあることを知った。そう、橙こそ「トキジクの木の実」にふさわしい、とひらめいた。橙は不老不死の果実とみなされていたのではないだろうか。いまも橙を正月に飾るのはなぜか。代々という語呂合わせの縁起物というより、遠い時代に不老長寿の果物と見なされた名残りではないのか。
江戸時代の百科事典ともいえる『和漢三才図会』によれば、橙は俗に「かふす」と呼ばれたとある。蚊熏(かぶす)の意味である。現代の柑橘類のカボスの語源もこれであるが、乾燥した橙の皮は蚊遣りの香になった。古代ではマラリヤを避けるために蚊のこない標高を選んで高地性集落が発達したほどだ。衛生状態の良くなかった昔、橙は蚊遣りという面でも、人々の健康と長生に貢献したわけだ。ちなみに橙皮は健胃剤や消化不良の薬としても利用され、中国では薬用として栽培されていた。
トキジクつまり時の経過を否定する言葉は、不老長寿を意味しており、それでこそタジマモリの痛恨の理由が理解できるというものである。垂仁天皇の求めた不老長生の果実は、間にあわなっかのだ。だからこそタジマモリは自死にいたる自責の念にかられたのである。 その橙の原産地はインド、ヒマラヤ地方であった。わが国への来歴にはオレンジ・ルートというべきものがある。むろん最終の経由地は済州島である。
話を戻さなければならない。タジマモリが帰還したのは丹後半島の北東端、浜詰海岸の夕日が浦であった。彼の帰還にちなんで「常世浜」とも呼ばれたという。