小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  5

2008-04-13 14:23:44 | 小説
 彦の『草稿』は、「アメリカ合衆国憲法に準拠した憲法草案」であると評したのは、佐藤孝(前掲)であった。たしかに、史上もっとも早く構想された日本国憲法草案なのである。前にも書いたが、だからこそ田中彰氏はあえて「国体草案」と呼ぶのであろう。本来なら「国体草稿」と称すべき文書であった。
 表紙に書かれている英文によれば、徳川政府へのプレゼンテーション用だったが、受取りを拒絶された文書ということになり、奥書と大意は変わらない。
 実は彦は、これ以前にも建言草案を書いていた。
 文久3年(1863年)に、故郷の姫路の藩公である酒井雅楽頭が老中に就任したのをみはからって、酒井宛に文書を提出しようとしたのだ。内容は積極的な開国貿易策をすすめるものだった。ところが、このときも仲介を依頼した神奈川奉行から取次は難しいと断られたのであった。
 彦の建言は、かくて徳川幕府の中枢に届いていないのである。
 さて、彦が「海外新聞」を発刊したとき、定期購読者のひとりに荘村助右衛門がいた。肥後藩士である。定期購読者といってもたった二人で、そのうちのひとりである。のちに彦は荘村と直接顔を合わせているが、なぜか自伝では、こんな表現をしている。

「定期購読者はわずかに、肥後のサムライ(ショームラ)がひとりと、もうひとりは九州の柳川の役人(ナカムラ)ばかりであった」(中村努・山口修訳『アメリカ彦蔵自伝2』平凡社・東洋文庫)

 荘村と面談したことは、自伝にはとりあげられてもいない。ふたりが顔を合わせたことは、荘村の肥後藩坂本彦兵衛あて書簡に書かれているだけである。それによれば、慶応3年5月、長崎においてであった。
 荘村は長崎の坂本龍馬の宿舎を訪問した。目的は桂小五郎を紹介してもらうためである。その坂本の宿舎に、彦がいた。そんなふうに読める手紙である。
 彦と龍馬に接点があったという証拠物件となる手紙である。
 ところが残念なことに、彦の自伝には、そのことを裏付ける記述はない。龍馬の名は彦の自伝には登場しないのである。
 桂小五郎、伊藤俊輔、井上聞多、あるいは横井小楠などの名は出てくるけれどである。 


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