小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎・素描  3

2011-11-18 20:27:31 | 小説
 清河八郎と安積五郎は、なにかというと行動をともにすることが多く、まさしく刎頚(ふんけい)の友というのは、こういう友人関係を言うのであろうと思わせる。
 安積五郎の実家は江戸呉服橋で、父は易者だった。ご存知清河八郎は出羽国(山形県)庄内田川郡清川村の出身である。幼なじみというわけではない。
 ふたりは江戸の神田お玉が池の東条一堂の漢学塾で塾生仲間として出会っている。八郎18歳のときで五郎は2歳年上の20歳だった。
 ちなみにこの漢学塾の隣に千葉周作の道場があった。八郎が千葉道場に入門したのは、22歳のときである。
 遊郭にも出入りするなど結構な遊び人ぶりを発揮し、江戸の独身生活を謳歌していた八郎だが、他の友人と一緒でも五郎だけは誘った気配がない。五郎は両親と一緒に住んでいるから、おいそれと登楼などの付き合いはできなかったのかもしれない。というより五郎は逆に八郎の遊蕩をいさめたような文章を残している。
 つまり五郎は八郎のように遊びに慣れていず、堅物なのであった。
 その五郎と八郎が、鶴岡の遊里でお蓮と出会ったという通説に、なにか違和感をおぼえるのは私だけだろうか。
「うなぎ屋」という風変わりな名の遊女屋であった。
 清河八郎記念館でまとめた「お蓮の生涯」という冊子の記事を以下に引用する。

「八郎は、その年(安政2年)母を案内して半年以上も伊勢詣りかたがた関西を旅し、四国までも足を伸ばし、帰りに江戸から親友の安積五郎を誘ってきた。その折うなぎ屋に登楼したのであるが、翌日女たちを誘って湯田川温泉に出かけて豪遊した。その宴席で、安積が酔狂に女たちの前で節分の豆まきをまねて、金銭をばらまいた。女たちは我れ先にとお金を拾い騒然となった。このときただ一人、手を膝に端然として微笑んでいる若い、美しい女があった。これが高代である。
 それを見た八郎は、その可憐な気品のある高代の姿に心を打たれたのである。それはまさしく泥中に咲く蓮であった。これが二人の出会いであり、純愛の始まりとなるが八郎の両親は許さなかった」

 書き写しながらも、私には疑念がむらむらと湧きあがる。このエピソードほんとうだろうか、と。


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
感想 (森重和雄)
2011-11-19 04:37:01
鏡川先生

面白いですねぇ、・・・
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。