小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

藤村「近親相姦」事件  完

2007-09-10 17:24:35 | 小説
 梅本浩志氏はもっと想像をたくましくして、藤村は河上肇の紹介で近衛文麿と接点があったのではと推測している。近衛文麿は河上肇を慕って東京大学から京都大学に転学していた。この師弟は首相と獄中生活者というまったく別の世界を歩むようになったが、藤村が東条英機から「戦陣訓」校閲を依頼されたりしたのは、あるいは近衛ー東条のパイプラインのせいかもしれない。
 いずれにせよ、藤村は太平洋戦争のさ中、昭和18年の夏、『東方の門』執筆中に倒れた。「涼しい風だね」というのが最後の言葉だったらしい。8月22日午前零時過ぎに永眠したのである。
 その日、こま子は、ラジオで藤村の死を知った。体の具合いが悪く、寝床でニュースを聞いたようだ。
 ひっそりと暮らしていた信州妻籠時代のこま子を訪問した伊東一夫氏は、彼女から屏風を見せられている。馬籠の島崎家から妻籠の島崎家にわたり、こま子が大事に愛用していた高さ二尺あまりの枕屏風であった。藤村の父、島崎正樹(いわずと知れた『夜明け前』の主人公のモデル)が、自作の歌を書きつけて継母に贈った屏風だった。こま子はたぶん、その歌が気に入って愛用していたのである。
こんな歌が書きつけられている。

 いやしきもたかきもなべて夢の夜をうら安く
 こそ過ぐべかりけれ
 花紅葉あはれと見つゝはるあきをこころのどけく
 たちかさねませ
 おやのよもわがよも老をさそへども待たるゝ
 ものは春にぞありける

 妻籠に隠棲するまでに、こま子の人生にもっとも少なかったのは心のどけき日々であったはずだ。「待たるゝものは春にぞありける」というところまで読んで、私は胸が詰まった。ちなみに、藤村の本名は春樹である。


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