ところで私たちは鉄砲というインパクトの強いハード面にとかく目を奪われがちだが、鉄砲には弾がいる。いくらたくさんの銃器を保持しようが、弾がなければ意味をなさない。火薬の調合法つまり弾丸の作り方というソフトも必要なのだ。
当時の黒色火薬は硝石、炭粉、硫黄の混合物だった。炭粉も硫黄も国内で入手可能だが、主原料たる硝石だけは入手不可能だった。天然物としては日本では産出されない物質だからだ。ではどうするか。中国やインド産の硝石を輸入するほかなかったはずだ。ということは海外交易のできるものしか手に入れることはできなかったのである。早くから半島や大陸と接触し、交易を行ってきた雑賀衆は、黒色火薬の製造に関する情報を、むしろ銃器情報以前に知っていたのではないか、というのが私の推測である。
『信長公記』には1570年に「根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡衆二万」にすでに「鉄砲三千挺これある由候」という記述がある。雑賀鉄砲衆が鉄砲衆といわれるゆえんは、銃器保有数の多さもさりながら、弾丸作りのノウハウを会得していたことが大きいと思う。
(注:時代が下ると硝石を人工的に作り始めるようになる。たとえば三重の桑名藩には硝石の製造の専門的なセクションがあった。むろん火薬の原料用である)
当時の黒色火薬は硝石、炭粉、硫黄の混合物だった。炭粉も硫黄も国内で入手可能だが、主原料たる硝石だけは入手不可能だった。天然物としては日本では産出されない物質だからだ。ではどうするか。中国やインド産の硝石を輸入するほかなかったはずだ。ということは海外交易のできるものしか手に入れることはできなかったのである。早くから半島や大陸と接触し、交易を行ってきた雑賀衆は、黒色火薬の製造に関する情報を、むしろ銃器情報以前に知っていたのではないか、というのが私の推測である。
『信長公記』には1570年に「根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡衆二万」にすでに「鉄砲三千挺これある由候」という記述がある。雑賀鉄砲衆が鉄砲衆といわれるゆえんは、銃器保有数の多さもさりながら、弾丸作りのノウハウを会得していたことが大きいと思う。
(注:時代が下ると硝石を人工的に作り始めるようになる。たとえば三重の桑名藩には硝石の製造の専門的なセクションがあった。むろん火薬の原料用である)