小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

慶安事件と丸橋忠弥  4

2009-09-07 16:02:23 | 小説
 さて、丸橋忠弥は7月23日に召し捕られて、翌8月10日には早くも品川(鈴ヶ森)で処刑されている。事件に関係した者の処刑は、この日だけで終りではないが、当日の処刑者は33人、34人、35人の三説がある。いずれにせよ「謀反人」たちの家族も処刑の対象になっていた。
 忠弥の場合、母と兄、それに兄の子(つまり甥でまだ15歳)も一緒に処刑された。
 記録によれば、その兄は幕府の御歩行頭(おかちがしら)宮城和治支配下の徒士のひとりだったという。名は加藤一(市)郎右衛門。なぜ加藤姓なのであろうか。
『慶安太平記』では、忠弥の兄の四方太郎は大坂の陣に父の盛親と参戦、落城後の逃亡中、伏見で捕えられ、三条河原で斬首されている。とっくに死んだことになっているのである。加藤が四方太郎なら、この話自体が嘘で、もしも話が事実ならば、加藤は四方太郎とは違う兄ということになる。で、なぜ加藤なのであろうか、とふたたび疑念がわく。そして、処刑された母は、盛親の愛人の藤枝だったのだろうか、と。藤枝はせっかく故郷の出羽の最上に帰ったのに、息子と一緒に江戸に出てきたとは、考えにくい。
 さらに忠弥の姉の存在が記録されているのは、なぜだろう。幕府の御鉄砲頭の近藤登之助支配下の徒士が忠弥の姉を妻にしており、近藤家から追放するよう老中から申し渡しがあった、という史料があるのだ。どうも、これらのことを勘案していると、忠弥を盛親の子とするのに違和感をおぼえはじめるのは私だけであろうか。
 それにしても、丸橋忠弥はなぜあっけなく蜂起目前に逮捕されたのであろうか。味方から訴人が出たからである。忠弥からすれば裏切り者ということになるが、その訴人は幕府側が送り込んでいたスパイだったようである。
 つまり丸橋忠弥は、はじめから疑わしい人物だと狙われていたのである。


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