小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  完

2008-04-25 15:53:01 | 小説
 ふたたび彦が日本に戻ってきたのは、生麦事件の直後だった。いうまでもなく、薩摩藩の大名行列を乗馬のまま横切ったイギリス人を藩士の一部が殺傷した事件である。
「帰ってみるとあの神奈川と鶴見の間にある東海道の一小村、生麦村で起こった事件をめぐって、外国人地区も日本人地区もまるで上へ下への大さわぎである」と彦は自伝に述べている。
 彦は事件について、あるうがった見方のあることを紹介しているが、ここでは割愛しておこう。
 アメリカ領事に着任を報告して領事館の仕事に戻った彼は、その後1年足らずで退職、横浜で商社を開き、やがて「海外新聞」を発行し、2年後に長崎に転出したのであった。
 彦は「新聞の父」といわれる。しかし、彼は新聞社社主としても、あるいは貿易商としても、すべて中途半端に終わった。
 明治になって、たった一度大蔵省に出仕している。井上馨の招きで国立銀行条例づくりに尽力したのである。明治5年から7年までという短い期間だった。大蔵大輔の井上が辞職すると、律儀に自分も退職するのであった。彦の夫人に談話がある。「(井上の)後任の大隈重信侯のすすめをおことわりしたのです。恩人にたいする彦のこの正直さと誠実さのゆえに、彦は多くの成功の絶好の機会と、物質的に豊かになる道をつかむことができなかったといえましょう」(近盛晴喜氏引用『彦文献資料』シラキュース大学図書館所蔵)
 彦の自伝を読み進めていると、1888年(明治21年)こんなことが述べられている。
「東京で気候が変われば、長いこと苦しめられている顔面神経痛にも効果があるだろう、と医者が言ってくれたので、…」東京に移転するのである。
 なんと長年、顔面神経痛を病んでいたのだ。おそらくストレスが原因だったろうと思われるではないか。日本とアメリカに引き裂かれ、物情騒然たる時代を、人生の漂流者として生きた彼のストレスは、心が落ち着いたころには身体の異常となって顕在化したのである。
 彦は明治30年12月12日、心臓病で死んだ。墓は東京青山霊園の外人墓地にある。外人墓地なのである。
 墓石には「SACRED TO THE MEMORY OF JOSEPH HECO]とあり、その下に「浄世夫彦之墓」と刻まれている。
「AGED 61 YEARS」すなわち享年61才だった。 


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