小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

西郷隆盛〈隠された素顔〉6

2005-04-13 17:21:48 | 小説
 晩年の西郷を語るキーワードは征韓論と西南戦争のふたつになるだろう。まず征韓論であるが、西郷は征韓論にやぶれて下野したと一般には思われている。しかし、彼は表向きは韓を討てとはいっていない。征韓論というより遣韓論ではないかといわれるゆえんで、自分を韓国に外交特使として派遣させろ、交渉決裂して自分が殺されれば、それを名目に韓国を討てというもので、他の征韓論よりは屈折している。
 西郷は何をしたかったのか。つまるところ「謀略」と「革命」の輸出である。維新をなしとげた西郷にとって、もう国内には謀略家として働く余地がないと判断したのではないのか。明治5年8月、西郷は池上四郎という軍事スパイを韓国、満州方面に派遣し、その報告書によって、かの地の事情を把握していた。西郷には勝算があったのであろう。明治6年8月17日付の板垣退助宛の手紙に書いている。
 彼の征韓論は「内乱をねがう心を外に移して国を興すの遠略」であると。
 明治維新がそのスタート時にはらんでいた矛盾は士族階級で構成された幕府は倒したが、士族そのものが滅びたわけではないという点にあった。どこかで士族を消滅させねばならなかった。征韓論のモチーフには、士族を韓国に追っ払って殺してしまえというもくろみも隠されていた。しかし、西郷はこのことを恐れていた。彼は士族という階級意識を捨てることのできなかった人である。士族そのものは生かそうとしていた。だから謀略によって韓国をとろうとしていたのである。
 結局、彼の征韓論(遣韓論)はうけいれられず、下野する。板垣宛の手紙にあるとおり。〈外に移す〉ことのできなかったエネルギーは〈内乱〉に向かうよりほかなくなるではないか。西南戦争は、必然の成り行きだった。
 島津久光は西郷を「安禄山のごときもの」と評した。この誹謗ともとれる西郷評は、なるほど正鵠をついていたかもしれない。

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