小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

幕末の「怪外人」平松武兵衛 完

2007-11-11 20:20:37 | 小説
 しかし、スネル兄弟と陸軍省もしくは新政府とのかかわりを、これ以上追及するてだてはない。ヘンリーあるいはエドワルドの没年も不明である。日本で死んでいるのならば、青山の外人墓地、または外人が埋葬されたという谷中の墓地などに眠っている可能性もある。
 ともあれ兄弟にそれぞれ暗殺されたという噂があるのは、どこかで彼らが尋常な死に方をするわけがないという周囲の思惑が反映しているのであろう。
 エドワルドと相馬藩の確執の経緯を、付記しておく。
 相馬藩は慶応4年7月、エドワルドと武器購入契約を結び、9千55両を手付金として払った。契約書では違約した場合は手付金倍返しであった。
 この契約、エドワルド側の契約不履行に終わっていた。
 当然、相馬藩はエドワルドに賠償を迫った。
 明治2年2月、相馬藩は倍返しは譲歩し、実質的な被害額である9千55両のうち、6千両を速金返済、残る3千55両は月賦返済でよいとまで譲歩する。
 ところがエドワルドはのらりくらりとして、4月に3千580両、10月に20両しか払わなかった。
 結局、相馬藩は9千55両の債権のうち、回収できたのは半分にも満たない3千600両にしか過ぎなかった。
 この債権回収に当った相馬藩の担当者には、エドワルド抹殺の動機はじゅうぶんにある。なにしろ相馬藩は一挺の銃も到着しないまま、新政府の軍門に降服したのであった。その屈辱感は金銭にまつわる憎悪以上のものを相馬藩に醸成させていたはずだ。恨みは10年やそこらで消えるものではない。
 むろん、小説化して整合性をもたせるのならば、彼ら兄弟がかって芝田町で起こした銃撃事件とからめてもいいかもしれない。鼻緒屋に仇をうたせるのである。
 それにしても兄弟がいつ来日したのか、ほんとうはそのことに、そもそも謎があるのであった。 


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