小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

慶安事件と丸橋忠弥  完

2009-09-22 13:54:02 | 小説
 慶安事件は失業武士救済のための蜂起(未遂)であったとは、前に書いた。
 関ヶ原の合戦、そして続く大坂の陣によって、失業武士は大量に発生したのだった。ひとびとに、慶安事件の首謀者を敗軍の将の縁故者とみなす、あるいはみなしたい心情が生じ、伝説を彩ったとしても不思議はない。
 丸橋忠弥とその一味が、刑場にひかれたその日の行列は前代未聞の光景だった。
 町奉行石谷貞清、目付の酒井半左衛門・小幡三郎左衛門らが与力50騎、同心60人をひきいて、処刑者たちを刑場に連行した。
 先頭は忠弥で、そこに罪状と刑名を略記した捨札と幟が立っていた。その先頭の忠弥が桜田門の前を通り過ぎても、後方はまだ半蔵門のあたりにあったというほど長かった。
 この行列が品川まで進んだのである。
 罪人のなかには切縄を首にかけられた小さな子供もいた。母親の乗せられた馬の脇を、獄吏に抱かれて、手には風車や人形が持たされていた。
 そういう光景を、好奇と野次馬根性で見物に駆けつけた沿道のひとびとが、どんな思いで眺めていたかは想像にかたくない。
 おそらく仁慈の政道とは何か、そういうことに思いをはせたものもいたであろう。
 町奉行石谷は、この日をさかいに浪人の仕官斡旋に尽力した。彼は以後、町奉行在職中の9年間に700人、職を辞してからも300人、計1000人の失業武士の就職斡旋をした、とされる。
 幕府もまた、差別・弾圧・殺戮一点ばりの浪人対策を方向転換して、浪人の再就職策を本気で考えるようになった。慶安事件に救いがあるとすれば、そのことである。志を得ることのなかった丸橋忠弥に救いがあるとすれば、そのことである、と言い換えてもよい。
 忠弥の辞世は「雲水のゆくえも西の空なれば頼むかひある道しるべせよ」とされている。しかし、彼は磔のさいに「雲水のゆくえ」と言っただけで、槍で突かれているから、実際は完成した辞世を詠んでいない。誰かが完成させたのである。彼の出自を長宗我部盛親の子としたように。


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