小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

唐人お吉と呼ばれた女 完

2007-03-27 11:57:02 | 小説
 3月27日は下田で毎年「お吉まつり」が開催される日である。下田の芸者衆が艶やかに打ち揃って供養する様子は、残念ながら観光写真でしか見たことがない。別に計算していたわけではないが、その「お吉まつり」の日に、このブログを終われそうである。こういう符合は私はきらいではない。
 さて、村松春水である。彼のかなり重要な取材原は宝福寺の住職の竹岡大乗師であったことは明らかである。村松は大乗師のもとに毎日のように通っていたという。お吉が「唐人」と呼ばれたことを村松に教えたのも大乗師であったらしい。唐人という言葉は、当時は外国人の総称のようなものだった。要するにお吉は「外国人」と呼ばれたにひとしい。外人と寝る女だから、日本人とは見なさいというわけだ。
 ところで大乗師が写真家の下岡蓮杖と親交のあったことは前にも触れたが、竹岡範男『唐人お吉物語』に、こんなくだりがある。
〈大乗師はお吉に法名を「釈貞歓」とおくりました。ヒュースケンから写真術を学びとった下岡蓮杖氏とは無二の親友で(中略)蓮杖氏よりお吉が開国のための陰の力となった犠牲者であることを聞いて知っていたことも考えられ、「まことのよろこび」という法名をおくったのでしょう〉
 そうなのだ。お吉伝説のおおもとのところに、ほらふき蓮杖がからんでいるのであった。
 村松の蒐集したお吉に関するデータは、ほとんど口伝のたぐいで構成されたと見るべきである。それにしても、お吉の母きわ、姉もととその夫惣五郎、それに一時期お吉の養子だったとされる安吉という少年のその後など、間接的にせよ身内の証言や消息を知る史料が少なすぎる。お吉はなぜ孤独な死を死ななければならなかったのか。
 明治23年の3月、稲生沢村の河内門栗の淵に身を没したお吉の遺体は村役場の吏員土屋某が検死している。束ね髪に縦縞の着物、黒襦子衿の半纏をひっかけて静かに眠っていたという。半纏さえ脱げていないというのは、やはり覚悟の自殺であろう。その遺体は、なぜ引き取り手がなく、二日間もむしろをかぶされて放置されたのだろうか。
 ほんとうに「唐人にさわると指がくさる」(前掲『唐人お吉物語』などと言われたのか。そうであるならば、彼女を疎外せざるをえなかったこの国の風土が哀しい。
 唐人お吉と呼ばれた女性が死して115年、その供養の日に、この稿を閉じる。きちさんの霊よ安かれ。


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