じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

パリ祭に思う

2017-07-14 17:41:25 | Weblog
☆ 今日はパリ祭。1789年7月14日、フランスの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃、フランス革命の始まりとなった。

☆ 王侯、貴族を中心とする絶対主義が崩壊し、ブルジョアジーによる新しい社会が築かれることとなる。


☆ 生産力が増大し、それに伴って新しい生産関係が築かれる。そうした下部構造の上に政治などと言った上部構造が構築される。経済活動の変革の波は、人為の努力では抗しきれない。残酷だが面白いところだ。

☆ これを中国の人は天命と呼んだのかも知れない。天命が革まって革命だ。


☆ バスティーユ襲撃の様子は、宝塚歌劇「ベルサイユのばら」を思い出す。全編を見たわけではないけれど、「バスティーユが燃えている~」というセリフが印象に残っている。


☆ パリと言えば、先日「ミッド・ナイト・イン・パリ」という映画を見た。作家を目指すアメリカの若者が、どうしたことかタイムスリップして1920年代のパリ、狂騒の時代へ行くというもの。そこで彼は、ヘミングウェイやピカソ、ダリなどと時を過ごす。時間のパラドックスなどはおかまいなし。

☆ 主人公は現代と過去を何度も行き来するがそれが実に自然で、脚本の妙であろう。20年代の街並みや調度品もよくできていた。監督はウッディ・アレン。思わず引き込まれる映画だった。 

☆ 今夜はパリを思い浮かべながらワインでも。行ったことはないけれど・・・。
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内閣支持率の低下から

2017-07-14 15:46:03 | Weblog
☆ 時事通信の世論調査によると、内閣支持率がついに30%を切ったという。

☆ 支持率が30%を切ると危険水域、20%を切ると退陣水域であるらしい。


☆ 2000年以降の内閣についてみると、森内閣は発足時40%程度だったか、退陣時には1ケタ台。今、大臣名簿を見ると総理大臣経験者、自民党総裁経験者、派閥の領袖などそうそうたるメンバーが並んでいる。まさに古い自民党オールスターズといった感じだ。

☆ その自民党を「ぶっ潰す」と言って登場した小泉内閣。今までの首相のイメージを一変する変人ぶりが受けて発足時80%程度、退陣時も40%と人気のある内閣だった。とにかくマスメディアの使い方がうまかった。脚本家、演出家、そして主演俳優って感じだった。

☆ 安倍1次内閣は、発足時60%、退陣時30%。就任するには若すぎたのかも知れない。期待を集めた割には閣僚の不祥事が相次いで、最後は病気辞任という感じだった。

☆ 福田内閣は、発足時こそ60%近くあったが、その後低迷、20%で退陣となった。福田氏自身、あまり総理になりたくなかったんじゃないかな。安倍氏の想定外の退陣を受けてのワンポイントリリーフって感じかな。小沢民主党との大連立が成功していればどうなったかわからないが、歴史に「たられば」はないからね。

☆ 清和会が4代続いた後の麻生内閣。発足時でも50%、退陣時は15%だった。何をやった内閣か印象に残っていないが、サブプライムローンに始まる世界金融危機に直面したのは不運だったかな。派閥が弱いのも残念なところだった。

☆ そこで政権交代。鳩山内閣は発足時こそ70%を超えたが、宇宙人的発言で支持率は急落。20%での退陣となった。

☆ 菅内閣は発足時65%。退陣時は15%。3.11への対応がまずかったなぁ。天災は仕方ないとして、福島原発に乗り込んだり、なんかパニックってる感じがした。

☆ 民主党最後の野田内閣は、発足時60%。退陣時20%。党首討論で、解散すると言っちゃったからなぁ。質問した安倍氏が驚くほどだった。負けがわかっていて解散するとは、人が良いというか何というか。

☆ いろいろあったなぁ。

☆ こうやって見てくると、確かに支持率が20%を切ると内閣はもたないようだ。 

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「日教組」結成から70年という

2017-07-14 09:25:43 | Weblog
☆ 朝日新聞の記事から。日教組が結成されて70年だという。かつては組織率86%(1958年、文科省調べ)を誇り、文部省と対峙した組織も、今や24%(2016年)。特に若手の新規加入率が低下しているという。

☆ 日教組も高齢化が進んでいるようだ。

☆ 組織率の低下は、長い目で見れば体制側の思惑通りに事が運んでいるということだが、やはり社会が豊かになったことが大きいと思う。昭和30年頃の教員の様子は、石川達三「人間の壁」にも詳しい。

☆ その頃はまだ戦前の教育への反省があった。東西冷戦を背景に「教育の反動化」があった。教育委員会法から地教行法に教育行政の在り方も変わった。学テ(学力テスト)、教科書検定をめぐる闘争もあった。組合活動に生きがいを感じる教員も多かったように思う。


☆ 私が中学生の時、生徒は教室に入り始業の準備をしているのに、先生たちは校門のところに集まって校内に入らなかった。統一行動だという。彼らはストとは言わなかった。春闘による交通機関のストが年中行事の時代だったから、それほど抵抗もなかったが。

☆ 私が高校生の時代は、京都府はまだ蜷川革新府政だった。そのせいか教員たちの組合活動も活発だった。多くの教員が終業時間に合わせて下校していたし、ある教員などは自転車に赤旗をつけて走っていたとウワサになった。

☆ 思想の善し悪しは別にして、面白い個性的な教員が多かった。

☆ その後、1978年に、蜷川府政から自民党の林田府政に代わり、「のどかな」京都の春も終わりを告げた。


☆ 話は戻って、昭和30年代、教員は他の職種と同様に貧しかった。それが闘争の原動力になっていたのかも知れない。

☆ 1974年、田中内閣の下で人材確保法が制定。教員の待遇は改善され、他の公務員よりも給与面では優遇されているようになった。

☆ 今、多様化する親のニーズへの対応、個々の生徒への対応、外国語教育や情報教育など新しい教育課題への対応など教員の多忙が問題になっているが、待遇面では他の業種の人々がうらやむほどだ。特に夫婦で教員だと、かなりの収入になる。(もちろんその分家庭生活、自らの子育てが犠牲にされているかも知れないが)


☆ 私の同級生も多くが公立学校の教員となっている。年代的には、校長、教頭(副校長)、主幹、主事、主任といった管理職や中間管理職の地位になっている。彼らがまだ若年教員だったころこんな話をしていた。組合員になっていることは「保険」だと。何かはわからないが、何か不当な労働行為があったとき、助けてくれるのが組合だという。(酒を飲んで事故を起こしたとき、教え子に手を出したとき、公金を盗んだときは、さすがに面倒は見てくれないというが)

☆ また、初任校の環境が大きかった。組合員が多数を占め、組合活動が活発な学校に赴任すると、組合に加入していなければ仕事に支障が出る場合があった(露骨ないじめがあったかどうかは知らないが)。学校の雰囲気に刺激され、学生時代ノンポリだった友人が、しばらく会わないうちに組合の闘士になっていることもあった。「赤旗とってくださいよ~」と何度も頼まれた。


☆ それから数十年、教員の気質も変わった。

☆ 組合にはさまざまな問題もあっただろうが、効用もあった。教員文化・教授技術の継承や社会への関心(あるいは変革者としての自覚)、官製研修とは違った独自の学習活動など。それらは今後のどうなっていくのだろうか。
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