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じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

2009年度京都府公立高校・山城圏の志願者数から

2009-02-27 05:23:55 | Weblog
★ 京都府公立高校一般入試の志願者数が発表された。

★ 山城圏では中学卒業生が減ることから定員が120名削減され、折からの経済状況の中、私立志望者が公立に流れ倍率が上がるのではないかと思われていたが、実際は昨年とほとんど同様な倍率となった。

★ 今年度志願者が増えたのは、田辺、莵道、東宇治。「志願者数ー定員」の数字で見ると昨年と比べて、田辺が+34、莵道が+30、東宇治が+25となっている。

★ 一方、志願者数が減ったのは、久御山-28、西城陽-20、南陽-19、木津-19、城陽-5となっている。

★ 一般的な傾向としては、昨年志願者の多かった高校が今年は減少し、昨年少なかった高校で増えている。

★ 南陽はもっと倍率が高くなると予想されていたが、アナウンス効果の影響か1.10倍。南陽は第1希望者が中心で、受験当日の欠席率も高いことから、今年はほぼ全入になりそうだ。

★ 同じく進学校として人気のある莵道は、今年は1.15倍と少し狭き門となった。

★ 南陽、莵道に次ぐ進学校である西城陽は1.02倍と第1志望者だけではほぼ全入。南陽、莵道から第2志望者がどれほど回ってくるかだが、南陽は倍率が低いからまず回ってこない。莵道を第1志望とする生徒は東宇治か久御山を第2志望とする場合が多いから、あまり回ってこないだろう。

★ 「中位レベルの生徒を受け入れ実力を伸ばす」と評判の東宇治は昨年Ⅱ類英語科が定員割れしたから、今年から一括募集となった。定員も減ったことから、今年は1.15倍と少し難しくなった。莵道からの第2志望者もあるだろうから、更に難関になりそうだ。

★ 「勉強とクラブ活動の両立」をめざす久御山は1.08倍とやや広き門。最近人気が高まって「受験者が増えるのでは」と言われていたことがかえって受験者を減らしたようだ。ただ第2志望として久御山を選んでいる生徒がかなり多いから油断は禁物だ。

★ 今年から学校改革が始まる城陽。「定員割れするのでは」と噂されていたが、昨年よりは少し志願者が減ったものの1.15倍と高い倍率となった。

★ 今年志願者が急増した田辺は第1志望者だけで1.34倍。田辺に入れなかった生徒が第2志望としてどこを選んでいるかによって、城陽、木津の難易度が変わる。

★ 木津は定員減が敬遠されたためか、1.10倍だった。

★ 京都八幡は240名の定員に対し既に185名が内定。残る55に対して35名が出願。第一志望だけでは定員割れとなった。第2志望あるいは第3志望者の受け皿となりそうだ。

★ 城南と西宇治が合併(実質的には西宇治の吸収合併)して誕生した城南菱創は単位制で内定者を除く定員65に対し、93名が出願。1.43倍となったが、予想されていたほどには倍率が上がらなかった。

★ 昨今、受験者の安全志向が高まっている。レベルの高い高校で競い合うことよりも、そこそこの高校で楽に過ごし、指定校で大学に入りたいといった生徒が増えているように思う。

★ 受験者の中には第1志望だけ(そこに合格しなければ私立高校へ進学する)、あるいは第2志望までしか希望していない人もいるので、実質の競争率は更に低くなると考えられる。

★ 受験は3月6日、発表は17日。健闘を祈りたい。
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ドストエフスキー的犯罪

2009-02-27 03:57:50 | 
★ 今日、読んで面白かったのは、五木寛之著「人間の覚悟」より第一章「時代を見すえる」である。

★ 「風に吹かれて」も同時に読んでいるが、月日の隔世を感じる。「風に吹かれて」もどこかニヒルな香り漂っているが、「人間の覚悟」はもっと直接的に人間の深部をえぐっているように思う。

★ 覚悟とは「あきらめること」。「あきらめる」とは「明らかに究める」こと。「なるほどなぁ」と思った。

★ 「命のデフレーション」「鬱的な気分」など的を射た言葉がバンバン出てくる。中でも惹かれたのが「ドストエフスキー的」犯罪というところだ。

★ 五木氏は秋葉原事件の犯人やその模倣犯が「だれでもいいから殺したかった」と動機を話していることを取り上げ、「神なき社会の形而上的犯罪」と分析している。「人間の魂の問題」として追究すべきであると言う。

★ そう言えば、NHK「知るを楽しむ」、亀山郁夫氏のドストエフスキーの話にはショックを受けた。スタヴローギンについてである。少女の死を予期しつつ、「何もしない」ということ。

★ 不気味な「なまぬるさ」、「無関心」と言う背筋の寒くなるような感覚。人間の心の奥にある一面を痛いほどえぐりだして見せつけている。

★ どのような悲劇も傍観者として見る「神のまなざし」という表現も強く印象に残っている。

★ 五木氏、亀山氏と二人の話を聞くと、カネやモノに踊らされ何となくハイになっていた時代から、一気に「魂」といった重く深いテーマに関わらねばならない時代に突入したのだと思えた。

★ これは現実逃避なのだろうか、それとも「深化」なのだろうか。

★ 今日はほかに、岡本勝著「禁酒法」(講談社現代新書)、越智道雄著「ワスプ」(中公新書)、本山美彦著「金融権力」(岩波新書)、水野和夫著「金融大崩壊」(NHK出版生活人新書)を読み進めた。

★ 「禁酒法」「ワスプ」ではどちらにも「華麗なるギャツビー」が出てきた。古き良きアメリカの象徴なのだろうか。水野氏の「はじめに」からは、ドル基軸通貨時代の終焉を感じだ。

★ 時代は動いている。
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「街場の教育論」「カムイ伝講義」

2009-02-25 00:08:20 | 
★ NHK-BS「週刊ブックレビュー」で紹介された内田樹著「街場の教育論」(ミシマ社)と田中優子著「カムイ伝講義」(小学館)を購入した。

★ 内田氏の著書は近くの書店で「ひとりでは生きられないのも芸のうち」文芸春秋、2008年)という本を見つけたので、先に読み始めている。

★ 「街場の教育論」も早速「まえがき」を読んだが、それだけで吹き出してしまった。この分では本文も期待できそうだ。世の中が閉塞状態にあるとき、新しい視点を提示してくれる著書は実に新鮮だ。

★ 一方「カムイ伝」。「カムイ外伝」と言えば昔テレビアニメで見た覚えがある。水原弘が歌うテーマソング、追手に追われる忍者カムイ。「サスケ」と並んで忍者ものでは毎週見ていた。

★ 「カムイ外伝」では「月見貝」の話が印象に残っている。ちょっぴりセクシーで子どもながらにときめいた覚えがある。

★ ところで、田中優子著「カムイ伝講義」は、「カムイ外伝」ではなく「カムイ伝」が取り上げられているという。先の「ブックレビュー」によると、カムイ自身はあまり登場せず、作品自体がカムイの視線で描かれているという。

★ 本書は江戸時代の日本社会を描きながら、そこから現代の日本社会を見つめるといった面白い視点である。「(江戸時代と比べて)21世紀になって、この日本は驚くほど変わっていない。ちゃんと階級もあり、格差もますます健在だ」(p2)という。

★ 「カムイ伝」には被差別の人々や農民、下級武士の生活が描かれているという、そこからは多くのことが学べそうだ。被差別については長い間、語ることに躊躇される時代があった。

★ 岡林の「手紙」や赤い鳥の「竹田の子守唄」は長い間封印されてきた。今やっと事実が語られる時代になったのかも知れない。

★ 「おくりびと」で納棺師が脚光を浴びているが、「カムイ伝講義」もまた歴史の中に埋もれた人々に光を当てているのかも知れない。読むのが楽しみだ。

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日曜洋画劇場「ザ・ロック」

2009-02-22 23:04:08 | 映画
★ 日曜洋画劇場は「ザ・ロック」」だった。

★ ショーン・コネリーとニコラス・ケイジの共演で、旧アルカトラズ刑務所に立てこもり、化学兵器で国を脅迫するテロリストと戦う映画だった。

★ DVDで2、3回見たけれど、何度見ても面白い。

★ ただ今回の日曜映画劇場版は最後がひどかった。結局、落ちがないままで終わってしまった。教会に行くシーンがない。最悪の編集だ。

★ ショーン・コネリーがせっかく暗示を与えたのに、何のことかさっぱりわからないではないか。
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キレる親、荒れる子ども

2009-02-21 23:25:27 | 教育
★ 虐待などが原因で子どもを保護した児童相談所の職員に対し、暴言を吐いたり、暴行を働く親が増えているという。

★ まったく身勝手極まりない。生活に窮していないのに給食費を払わない親と共通するものがあるようだ。

★ 折しも、藤原和博著「公立校の逆襲」で今日読んだところは「荒れる子供たちを救うには」というタイトルだった。荒れる学校の現状を報告する教員の投稿から話が始まり、同じく荒れを体験している教員との意見交換の様子を伝えている。

★ 同著書の中では、いささか歯切れの悪い章になっている。「子どもの荒れ」を目前にしたとき、特効薬をもたない教育関係者の現状なのだろう。

★ 子どもの「荒れ」は今に始まったことではないが、今日の「荒れ」は反抗期などといった生易しい言葉で済まされるものではない。

★ 今日の「荒れ」は、駄々っ子に近いものがあるように思う。何となくイライラする。何となく鬱陶しい。面倒なことはしたくない。今が楽しければそれでよい。自分の欲求が通らないと辛抱できない。とにかく目立ちたい。自分の存在を認めて欲しい。そんなところだろうか。

★ 昔から「親の顔が見てみたい」といったフレーズがあるが、「この親にして」ということもよく経験する。親自身が「子ども」のようだと思えることもある。

★ 好意的に見れば経済的な圧迫や希望のもてない生活の中で、子どもを思いやるゆとりが持てないということだが、すべてを社会の問題に帰しても解決にはならない。踏ん張ってもらわないと「荒れ」が再生産され、いつまでも不利益な社会状況から抜け出すことができない。

★ 今や成熟社会、教育はサービスに変わり、親や生徒はお客様。「お客様は神様」で、クレームはありがたいご意見と言うことか。それを受け入れられないのは教員が時代遅れの頭で対処しているからということか。

★ そう割り切ってしまえばそれで良いのだろうが、何かしっくりこないなぁ。
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霞ヶ関の逆襲

2009-02-21 12:47:16 | Weblog
★ 民間、それも地方で生活していると中央官庁に勤務する官僚と言うものの実態はわかりづらい。

★ 「政治主導」と叫ばれながらも一向に官僚に依存した政治状況は変わらない。明治維新以来、いや官僚機構は江戸幕府の時代からの系譜か。ころころと変わる政治家と違って、生涯官僚として生きる人々はさすがにテクノクラートであるし、したたかでもある。

★ 昔、専門誌記者のまねごとをした時期があって、虎ノ門の文部省や霞ヶ関の総理府などに足を運んだことがある。そこで出会った官僚はそれほど異星人のようには思わなかった。

★ 確かに地位によってふんぞり返り具合は違った。課長ぐらいまでは実に腰が低いのだが、局長になるとかなり偉そうになる。次官になると腰の高さの使い分けが見事だ。上には低頭、下には高慢。そうした使い分けができる人だけが生き残っていけるとも言える。

★ 東大閥と東大閥以外の人との確執もあったな。当時、大学院生だった私にとって、「人事」が大きな話題なのも興味深かった。

★ 「天下り」「渡り」などマスコミが大きく報じている。ピラミッド型の官僚組織の風習だ。これを悪しき風習として排除するか、必要悪として是認するか、国家議員が自らの定数削減に消極的であるように、役人が自らの不利になることに積極的であるはずがない。

★ 背後には先輩後輩の縦の関係がびっしりあるし、役所ごとの既得権益争いがある。「地位」で生きている人々だから、そのプライドを曲げることは簡単ではなさそうだ。

★ 政権の背後でうごめく官僚の姿が見え隠れするようになってきた。公務員改革を進めようとする内閣への面当て、強硬な人は与党からも出て行ってしまった。一方の官僚は政権交代を見越した生き残り策を練っているのか。

★ 官僚の処世術は1冊の本になるだろうね。そうそう、旧大蔵省が復活の気配だね。
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勝って奢らず、負けて腐らず

2009-02-19 16:37:54 | Weblog
★ 今日は京都府公立高校、前期入試(推薦入試・特色選抜)の合格発表だ。

★ 3時頃、まずは女子生徒から電話で西城陽高校合格の知らせ。続いて、男子生徒二人がやってきた。一人は久御山高校、もう一人は木津高校に合格した。おめでとう!

★ 他の生徒はどうだったのだろうか。

★ 結果はどうあれ、「勝って奢らず、負けて腐らず」に、これからも頑張ってほしいものだ。

★ 公立入試、次は本番、中期試験だ。大多数の生徒がこの中期試験を受験する。

★ ところで、先日深夜に「ドラゴン桜」の再放送を見ていて、ふと気になるセリフがあった。「勝った人の数だけ、負けた人がいる」というもの。「なるほどなぁ」と思った。

★ 最近では大相撲での朝青龍のガッツポーズが問題になったが、日本の文化の中には、勝者を讃えつつも敗者への配慮を忘れない優しさがあったのだと感心した。時代の移り変わりの中で、「ガッツポーズぐらいいいではないか」という日本人が増えてきたが、守るべきものは守っていきたいものだと思った。
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生きる意味

2009-02-19 04:28:34 | 
★ 茂木健一郎氏の「脳と仮想」から、今日は「傷を受けての脳の再構成」を読んだ。わずか2ページ余りだが実に示唆に富む。何回も反芻して考えた。まさに私の脳が再構成されたといえる。

★ 大学生時代、私の直面する課題は「生きるとは何か」というテーマだった。「人は何のために生きているのか」「生きる価値はあるのか」ということだった。そんなことなど考えなくとも、私たちは毎日生きている。食べ物を摂取して、そこからエネルギーを得て活動し、不要物を排泄して日々を過ごしている。そして多分、子孫を残し種を維持することが生物としての私の存在意味なのであろう。

★ ただ、「人間」としてはそれだけでは物足りない気がした。何か柱を持たなければ、自分自身が実にあいまいで、ものごとの価値判断をする際の基準を見出すことができない気がした。

★ だが、「生きるとは何か」など、そう簡単に答えが出る問題ではない。答えなどないのかも知れないし、百人いれば百の解答があるのかも知れない。

★ そこで私は仮説を立てることにした。「生きるとは創造であり、創造とは自己実現である」と。あとは一生かかってこの仮説を検証すればよいのだと思うと、少し気持ちが軽くなった。

★ さらに、「いかにして自己実現は可能か。それは愛によってである。愛とは対象において自己を見出すことである」とも考えた。三木清や有島武郎、倉田百三の受け売りだが、何となく安心できた。

★ 今日、茂木氏の本を読んでいると、人はある体験から心に傷を受けた時、脳の再構成が行われるという。彼は「(この)再構成の結果新しいものが生み出されるプロセスを、人は創造と呼ぶ」(86ページ)と述べ、「脳は、傷つけられることがなければ、創造することもできないのである」と締めくくる。

★ すばらしい自然や芸術作品にであったり、思いがけない体験をしたとき、人は感動する。感動は時として新たな芸術作品を生む。このとき、心(つまり脳)の中は激動の嵐が吹き荒れているのだね。

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閉ざされた組織の狂気

2009-02-16 03:27:44 | 映画
★ ベルリン国際映画祭の記事で若松孝二監督「実録・連合赤軍」が目についた。

★ 映画はまだ見ていないが近くDVDが発売されるそうなので、見てみたいものだ。前半は集団リンチ殺人事件を描き、後半は浅間山荘事件を描いているという。かなりグロい場面もありそうなので覚悟して見てみたい。

★ それにしても、ホームページで連合赤軍事件に関する記事を読んでいると、集団リンチの様子は悲惨なものだ。「総括」や「自己批判」の名のもとに行われた集団暴行は、閉ざされた組織の狂気としか言いようがない。こんなものは革命でも何でもない。

★ 人間の嫉妬心や権勢欲と組織内のヒエラルキーが結びついてしまったときの攻撃性には驚く。ある者は暴行に加わらなければ次は自分がターゲットにされるから、その恐怖から加担したという。

★ 「戦争」と言うもの「軍隊」と言うものの本質もこのようなものかも知れない。人間はどうしてここまで残虐になれるのだろうか。どうして自己破滅への道を歩んでしまうのだろうか。

★ 彼らは外に向けた攻撃性が官憲によって押さえつけられたために、それが内に向かってしまったのだろうか。彼らは時代の酒に酔ったナルシスト達なのか。彼らなりに「革命」を真剣に考えていたのであろうが、今から思えばはた迷惑な「革命ごっこ」に思える。

★ 「革命」の嵐はずっと昔に去ったが、閉ざされた組織の狂気はオウム事件でも再現された。集団リンチまでは至らなくとも攻撃性のウィルスは企業社会や学校社会に蔓延している。

★ 人間には恐ろしい一面があるようだ。
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遊びの効用

2009-02-14 10:55:14 | 教育
★ 大学の後輩に「遊び」を通して子どもの可能性を伸ばそうとしている人がいる。実業家を目指してあちこち飛び回っている20代の意気のいい青年だが、目のつけどころがいい。

★ 子どもの知的好奇心をうまく刺激している。経営的に成り立つかどうかは、今後の奮闘次第であるが、動けば何らかの成果が得られるのは必定。頼もしい限りだ。

★ 彼のブログを見ていると、私も大いに刺激される。

★ 「遊び」については自分なりにまとめておいた方が良さそうだ。自己教育力や知的好奇心などについても改めて勉強したくなった。アハ体験など実に興味深い。

★ 天井に吊り下げられたバナナを取ろうと悪戦苦闘していたチンパンジー。飛び跳ねただけでは届かない。箱に座って「どうしたものか」と考えた。ある瞬間、「アハ!」といって手をたたき、箱を積んで、それに昇ってバナナを取ったという。

★ そのチンパンジーにとっては革命的に進化を遂げた一瞬だろう。実は私たちは日常的にこうした経験をしている。学校での学習などはこの連続だと言っても過言ではなかろう。学習とは訓練と発見の連続だ。訓練は苦しいが発見は快楽だ。

★ 任天堂のDSを使って英単語力を伸ばそうという試みが始まっている。訓練については、こうした工夫も効果的だろう。単純な作業を飽きずに継続する工夫にかけては人間は天才だ。「遊び」にしてしまえばよい。

★ では、発見はどのように演出すればよいのだろうか。観察と実験、調査といったところか。板倉さんの仮説実験授業などは今なお魅力的だ。

★ 大学の学園祭で、招かれた板倉さんの授業を実際受けたことがあるが、さすがに楽しかった。仁丹に電気が流れたのには驚いた。

★ 「遊び」には他にも効用がありそうだ。心理学や脳科学の成果が学習に生かせればもっと効果的な教育が実現できると思う。
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