じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

危機に立つ教育

2006-08-31 23:51:33 | 教育
★ 文部科学省は第三者による学校評価の実施に向けて、その試行を始めるという。日本の学校ではなかなか学校評価が根づかず、評価するにしても教員による自己評価が中心だった。その点、第三者により、また5段階で数値化するといった試みは画期的なできごとである。

★ もちろん課題は多い。評価をする人間の資質・力量の問題や数値化することの意味。また評価をしても、それをもとに改善するストラテジーがなければ、治療法もないのに検査ばかり受けさせられる患者みたいなものである。改善、治療への活用がなければ単なる学校の格付けに終わってしまう。

★ 今回のニュースを見て、1980年代初頭にアメリカで発表された「危機に立つ国家(A Nation At Risk)」を読んでみた。当時学力低下に悩み、国際競争力の低下に強い危機感を感じていたアメリカ政府が諮問してつくられた報告書だが、今日の日本への示唆があまりにも多いのに驚く。振り返ってみれば、当時の日本はまさに絶好調で、海外への進出も著しかった。経済的な発展の反面、校内暴力やいじめなど学校の荒廃が叫ばれ、その原因の一つに画一的な教育のあり方が指摘された。そうした流れを受け臨時教育審議会では「自由化」をめぐり激しい議論が戦わされた。

★ アメリカが日本をまねるべく総花的なカリキュラムを見直す一方で、日本では自由化、個性化が叫ばれたのは面白い対比であった。「危機に立つ国家」の一節、「わが国は危機に直面している」は今日の日本の教育にもっともあてはまる表現であろう。日本もアメリカの後追いをして「優秀性」(個人にあってはその能力を限界まで発揮させること、学校にあっては高い期待と目標を掲げ、その達成を援助すること「橋爪貞雄訳「危機に立つ国家」41p)を追求していくのだろうか。20年遅きに失したが、時代背景も変わってきたので、日本なりの新たな教育改革案ができれば活路もあるだろう。

★ 「四六答申」や「臨教審答申」のように絵に書いた餅にならないように、実効性のある改革を期待したいものだ。
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教育改革のスピード

2006-08-30 23:46:57 | 教育
★ 東京大学の研究機関が公立小中学校の校長を対象とした調査を行い、その結果、約9割の校長が学力格差の拡大を懸念し、また同じく約9割が教育改革のスピードが速すぎると回答していると言う。

★ ここ10年ぐらいの間、確かに学校は大きくぐらついてきた。「新しい学力観」「生きる力」「総合学習」「百ます計算」・・・いろいろの言葉が飛び交ってきたが、何かが発送されるたびに教師達は奔走し、結局疲れ果てただけで、何が実になったのかわからない。

★ 学力格差の拡大を危惧し、基礎基本の充実と知識に偏らない総合的な学力をめざした「ゆとり教育」。週5日制の導入もあって、教育内容が大幅に縮減され、これなら多くの子ども達がおおよそは習得できるであろうと実施されたが、結果はひどいものだ。どんなにレベルを下げても、勉強をする子はするし、しない子はしない。レベルを下げることによって、勉強をする子の到達度まで下がってしまった。レベルの引き下げは大人の要らぬ配慮だったのかもしれない。

★ 確かにこの結果には弁解の余地がある。当初から「学力低下」を危惧する声に押されて改革自体が中途半端な形で挫折してしまったからだ。この点、さぞかし寺脇研さんは無念だっただろうと思う。社会全体の風潮も逆風だった。小泉さんも教育には熱心ではなかったし、せいぜいが習熟度別授業の導入を自負する程度だ。親の意識も変わった。学校の役割が教育サービスとなる中で、学校は消費者である親のクレームにさらされ、お客様である「お子様」の顔色を伺うようになった。

★ スピード感を持って教育改革を実行することは悪い事ではない。校長達が指摘することは、スピードと言うよりもむしろコロコロ変わる政策についていけない、何を信じて教育なり学校経営なりをしていけばよいのかわからないと言うことだろう。

★ 教育は国家百年の計というが、今国家には明確な方針がない。根っこがぐらつけば、枝葉がぐらつくのは無理もないことだ。「不易流行」と言う言葉があるが、教育はしっかりと根を張ってもらわなくては困る。国民は腹をくくってこれからの教育を考えていく必要があると思った。
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ドキュメンタリーはいいなぁ

2006-08-20 13:08:24 | Weblog
★ NHK教育テレビのETVという番組で「もういちどつくりたい、ドキュメンタリスト木村栄文の世界」を見た。

★ ドキュメンタリーを長年作り続けてきた木村氏が難病パーキンソン病に冒されつつも、最期にもう一作ドキュメントを撮るために、大手術を受け、また障害を抱えつつも取材、ロケを始めるといった作品だった。

★ 「革命児」といわれ、ドキュメンタリーの各賞を席巻した木村氏。その背景にはドキュメンタリーにかける木村氏の並々ならぬ執念、そして木村氏を支える家族の優しさがあったのだなと感じた。

★ 視聴率市場主義のテレビ業界で、視聴率のとれないドキュメンタリー番組は資金的にも苦しいと聞く。ただその中にあっても社会の深部にある問題をえぐりだすようなドキュメンタリー番組にしばしば出会う。

★ 木村氏が言うようにドキュメンタリーもまた「創作」かも知れない。そこには製作者の視点が入っているし、構成もあろう。ナレーションや音楽も製作者の演出だ。事実といっても製作者のフィルターを通したものであり、視聴者は製作者が投げかけた問題提起を自分の感性で読み解き、共鳴したり、批判したりしなくてはならない。だが、この作業こそが大切なのだと思う。自分で咀しゃくすることが楽しいのである。

★ 以前は日曜の午前中に多く放映されていたドキュメンタリー番組。今では日曜の深夜に追いやられている事が多いが、細々とでも生き続けてほしいジャンルである。軽薄な番組が横行する中で、たとえ資金源にはならなくともテレビ局は威信をかけて守ってほしいジャンルである。今回のドキュメンタリー、民放で活躍するドキュメンタリストをNHKで取り上げるというのも面白い現象だった。
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小学校で古文・漢文指導

2006-08-18 20:03:53 | 教育
★ 中教審は小学校で古文・漢文を指導することの検討を始めたという。古文・漢文の場合、小学生で内容までの理解は難しいので(理解できる子は発展学習を進めてもらいたい)、「素読」が中心となるだろうが、「素読」はなかなか良いものだと思う。古文・漢文というと復古主義との批判もあるだろうが、戦意を煽るものであったり、忠君愛国を説くものでなければ、現代でも十分学習価値があると思う。政治的な愛国心問題とは分けて考えてもらいたい。

★ 日本の教育はキリスト教など宗教をバックグラウンドとしておらず、西洋の人々にとっての「聖書」、イスラム教圏の人々にとっての「コーラン」のように教養の核となる文章がない。そうした「日本人としての教養」の核を古典(漢文も含めて)に求めるのは決して間違ってはいないと思う。

★ NHKで放送されて「じゅげむじゅげむ」が子どもたちの間で流行ったり、言葉のもつ音やリズムの面白さは子どもたちにも十分通じる。そして古典には現代詩のリズムとはまた違った味わいがある。

★ ただ問題は、今でも相当過密な学習時間をどうやりくりするかだ。結局、長期休暇を削るか、土曜日の授業を再開するかだろうなぁ。週5日制をやめるのは経済的な効果を背景に経済産業省あたりが横槍を入れるかな。
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「夢から醒めた夢」

2006-08-17 18:31:08 | Weblog
★ 今日は京都劇場で上演されている劇団四季の「夢から醒めた夢」を見てきた。長く生きているけれどミュージカルを見るなんて初めてのことで、わくわくドキドキしながら劇場へ。観客は8割以上が女性と子どもたちで、おじさんが紛れ込むのは少し勇気がいった。

★ 今回の目当ては村岡萌絵ちゃんだ。彼女のファンには秋葉系の男の子が多いと聞くが、ファンの諸氏には申し訳ないが、彼女は私の教え子だ。(自慢)

★ まずはロビーパフォーマンス。彼女は小人役で登場、見事なハンドベルを聞かせてくれた。

★ 会場に入っていよいよ開演。ストーリーは劇団四季のホームページを参照してもらうとして、とにかく良かったなぁ。最初は理屈っぽいセリフが多くて少し馴染めなかったけれど、話が進むにつれて盛り上がってきた。戦禍に死んでいった子どもたちなど社会性も織り交ぜて、ユーモアありジーンと来るシーンありと時間の経過を感じさせなかった。

★ 会場には子どもも多かったけれどみんな集中して見ていたなぁ。美術のすごさ、音楽やダンスのすばらしさはいうまでもない。さすがに唯一演劇だけで食っていける集団といわれる「四季」だけのことはある。

★ 洗練された演技は不自然さを感じさせないし、メインのキャストが演じているときもステージ上の全員が自らの役を演じている。それがステージ全体の統一感になっているのだろう、と感じた。(演劇はあまり見ないから自信はないが)

★ 萌絵ちゃんのパレスチナの子どもも良かった。歌がうまくなったなぁ。バレーは昔からうまかったけれど、演技に磨きがかかったなぁ。

★ 楽しい夏休みのイベントだった。
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「阿部一族」

2006-08-14 23:19:49 | 
★ 高校生が夏休みのドリルをしていた。国語のドリルで題材は森鴎外の「阿部一族」の一節であった。前後関係の記述がなくその一節だけを読んでも何の事だか訳が分からなかったので、最初から読んでみることにした。

★ 鴎外の作品では「高瀬舟」を昔読んだ覚えがあるが、「阿部一族」は読む機会がなかった。少し読んでいくと、以前テレビで見かけた映画を思い出した。確か佐藤浩市さんが出ていた。ものものしいバリケードが築かれた屋敷に討ち入る戦いのシーンが印象的だった。そうかぁ、あの映画が「阿部一族」だったのだなと今さらながら思った。

★ 今ごろ思うのも不思議だが、森鴎外の文章は軽快で素晴らしい。無駄がないし、的確な言葉が適所に心地よく当てはまっている。さすがは文豪と言われる所以である。

★ テーマは「殉死」で今の私の倫理観では理解できないものだが、武士道の名残があり、忠義が価値観としてまだ息づいていた鴎外の時代だからこそ、これほどまでにリアルに取り扱うことができたであろう。

★ 時代背景には乃木将軍の殉死があったという。

★ 人の風評に命を左右するなどは今の感覚で言えば滑稽ではあるが、「名」や「恥」「世間体」を命よりも重んじ、主人を絶対的な存在として崇拝するマゾとサドが同居するような、また同性愛的な武士社会の中にあっては、殉死は美でさえあったのだろう。

★ そもそも当主の気が済むかどうかで始まった切腹騒動。それをめぐる藩の方針と家督を継いだ長男の不満。長男の抗議の行動とそれを不敬として処罰した藩。その処遇にプロテストする訳ではなく八方塞がりになって自滅していく阿部一族。藩主に討手を命じられて戦いの中で死んでいく人々。それを遠くから眺めている藩主。

★ ドラマとしては面白い題材だが、結局みんな犬死だったようにも思える。今の価値観で慮るのは不遜だろうけれど。そう考えれば今私達が大切だと思っていることも未来の人々から見ると痴話喧嘩のように詰まらないものかもしれないね。
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授業について

2006-08-14 03:57:14 | 教育
★ 長年「授業」をしているが、「ヤッター」と達成感のもてるような授業はまれにしかない。いつも反省しきりである。準備が不十分であったり、教材と生徒のレベルが一致していなかったり、生徒がうまく乗ってこなかったり、理由は多多あるが、授業とはこれだ、という境涯にはまだ達していない。

★ 学校教育では人格の形成が目的とされ、具体的には古い言葉で言えば「知・徳・体」の形成が求められる。学習塾はそのうちの「知」に特化し、広く言えば学力の向上、具体的にいえば、志望校への合格や学校の成績の向上を目的とする。そしてそのための知識やスキルを指導するのが「授業」ということになる。

★ 学習塾にとって「授業」こそが主力「商品」なのである。だからこそよりよい商品をめざして研究開発を進め、自らの商品の素晴らしさを社会にアピールし購入してもらうように努力する。

★ 最近「授業」は多様化してきたが、「授業」の要素としては授業者(インストラクター)、カリキュラム、教材、クラスの形態・雰囲気、指導方法、評価法、施設・設備などが含まれている。

★ 「授業」とは何だろう。吉本均さんは「授業はドラマだ」と言われていた。確かに「授業」には劇性がある。視聴者参加型のドラマだ。斉藤喜博さんは「子どもを変革するもの」として授業を捉えられている。大村はまさんの「学習の手引き」も大いに参考になる。板倉聖宣さんの「仮説実験授業」は大学の学園祭で模擬授業を受けたが、面白かった。

★ 時々女優さながらの先生を見かける。巫女のように誰かが乗りうつったかのように「教師」を演じ、ぐいぐい生徒を引き込む授業をされる。話術、表現力の豊かな先生はうらやましい。小学生相手の授業では「手話ニュース」のように表情豊かに指導することが良いのかもしれない。

★ でも最近予備校のCMではとってつけたようなパフォーマンスの授業を見かける。かつては予備校講師もタレントよろしく派手なパフォーマンスで売る時代があったが、見かけだけの講師は長くは続かない。

★ 「授業」というものは奥が深い。修行は永遠と続くのだろうが、まず指導者が楽しまなくては、「授業」は楽しく生き生きしたものにはならないだろう。そのためにも準備には万全を尽くしたいものだ。キリはないのだけれど。
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死語について

2006-08-14 03:19:27 | Weblog
★ お盆につき、死後ならぬ死語の話。

★ 今日、授業中「アベック」という表現を使い、生徒に笑われた。現在では「アベック」という言葉をあまり使わないらしい。私にとっては「アベック」といえば、トニー谷さん司会の「アベック歌合戦」、「あなたのお名前なんてぇーの♪」だ。話はそれるが、トニー谷さんの軽快な拍子木のリズムは、今のアクセルホッパーにも通じるものがあるような気がする。元をたどれば「オッペケペー」に通じるようにも思える。そういえば「オリエンタルラジオ」の「あっちゃんいつものやったげて~♪」の武勇伝も共通するものがあるかな。

★ 死語といえば、「ハッスル」は見事に復活したなぁ。「ダサい」はまだ生きてるかな。「はしょる」(省略する)は子どもたちに通じなかったなぁ。「はみご」「しかと」は生きているかな。

★ 授業で「学らん」の語源が話題になって広辞苑で調べたら「らん」は「ランダ」といって洋服を意味するらしい。「ランダ」の語源は「オランダ」だそうだ。「学らん」とはもともと学生の着る洋服って意味だったらしい。

★ 「はいから」なんて言葉はまだ通じるのかな。「はいからうどん」や「はいからさんが通る」なんてコミックがあったけれど、もともとはハイカラー(カラー=学生服の首の部分が高いこと)から来ているらしい。高いカラー、ハイカラーが格好よかったのだろう。「金八先生」で近藤真彦さんがハイカラーな「長らん」を着ていたのを思い出す。

★ さすがに「チョベリバ」は死語だろう。ギャル語は寿命が短い。ファッションさながら1年たてばもう時代遅れなのだろう。「がんばりズム」とかも通じないかな。古文の授業で古語の暗記に苦しんだ事を思い出すが、今の言葉もやがては古語となっていくのだね。
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音楽のちから

2006-08-12 17:29:01 | Weblog
★ NHK教育テレビで「音楽のちから」という番組をみた。再放送だそうだが、なかなか面白かった。

★ 今回は「声」「息」がテーマとかで、モンゴルのホーミー、アルプスのヨーデル、インドの歌、人間パーカッションなど民族音楽を垣間見た。

★ ホーミーというのは不思議な音楽だね。初めてホーミーのことを知ったのは「探偵ナイトスクープ」で、ホーミーの好きな青年がホーミーを体験するといった話だった。それからはCMなどでも取り上げられるようになったけれど、声自体は日本の浪曲にも通じるものがあるのかな。

★ インドの歌といえば女性の甲高い声が印象的だが、今回は男性歌手が取り上げられていた。その歌手の「だみ声」を聞いて、nobodyknows+の歌やバナナの叩き売りの口上に通じるものがあるなと思った。

★ 以前に、中国の民謡を聴いて、日本の「南部牛追い唄」に似ているなぁと感じた事があるけれど、世界の音楽にはどこか共通したものがあるのかもしれない。

★ 話は広がるけれど、民族音楽というのは面白い。ケルトの音楽は癒しの音楽として有名になったけれど、日本人の心情に響くものがあるなぁ。「蛍の光」や「グリーンスリーブス」もアイルランドやスコットランド方面の音楽だったかな。そういえば、バグパイプと笙は似てなくもないか。

★ ヨーロッパの宗教音楽もいいねぇ。グレゴリオ聖歌など男性コーラスの魅力満点だ。寒々とした教会の雰囲気が伝わってくるけれど、清浄な気分になる。そうだグレゴリオ聖歌か「グレゴリアン」を聴きながら「ダヴィンチコード」を読んでもいいかな。

★ サイモンとガーファンクルの「スカボロフェア」は宗教音楽の「詠唱」をアレンジしているんだよね。

★ 中近東の音楽では、昔「なるほど・ザ・ワールド」で取り上げられていたトルコの軍楽隊の行進曲が印象的だ。日本の官軍の「ピーヒャラ・ピッ・ピッ・ピ」と並び、西洋音楽とは一風変わった行進曲だと思う。「ダルスウーダラ」だったけ、黒澤監督の映画の題名みたいだけれど、異国情緒があっていいね。

★ イスラムの音楽も独特の魅力がある。インドの「カッワーリ」もどことなく懐かしい響きがある。チベットの僧侶のコーラスと天台声明には似たような響きがあるように思う。こう考えてくると、宗教と音楽の結びつきは濃厚だね。

★ 歌い方、発声法としては、今みたいにマイクといった音響機器がない時代だから、遠くまで明確に声が聞こえるようなものになったのだろうね。
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塾の思い出

2006-08-10 16:36:29 | Weblog
★ 夏期講座もまもなく第3クールが終わる。夏休みも半分終わりだね。子どもたちを指導しながら自己体験を思い出した。

★ 私が始めて塾に通ったのは小学校6年生の頃。私の住む新興住宅街にも「塾」というものができたというので、別に中学受験を考えていたわけではないけれど、入塾テストだけ受けてみる事にした。

★ その塾は、あすなろ学園(現成基学園)で教鞭をとられていた森脇という先生が主宰されているもので、退職校長さんたちが指導していた。いわゆるスパルタ式で、森脇先生は細い木の棒(差し棒なのだが)を片手に授業され、ボーッとしようものなら、その棒で叩かれたものだ。算数の先生など木製のコンパスで叩くから、結構痛かった。

★ 当時はそうした「愛のムチ」も許されていたおおらかな時代だった。生徒のほうも比較的のんびりで、牧歌的な雰囲気が漂っていた。

★ 中学生に入ると英語が始まったが、その講師が実に風変わりな人物だった。当時考えていた教師像には全く当てはまらない型破りな人だった。まず、机に腰をかける。口が悪い。当時30才前後だったと思うが、ケンカ腰のその授業はなかなか面白かった。

★ その講師は滝山敏郎先生といい、後に東進などで教鞭をとられる。京都の片田舎でこうした先生の指導を受けられたのはまさに奇跡的な出会いだった。今にして思えば贅沢な授業だった。

★ 滝山先生のお陰で、受験で英語に苦労することはなかった。高校に入ってからは成基学園に入塾したが、ここでは数学の授業に驚いた。確か大阪の大手前高校の現職の先生が指導しておられた(今ではこんなアルバイトは許されないだろう)が、その緊張感溢れる授業は初めての体験だった。なんせ次々と当てていかれるのだが、その問題が実に難解で、田舎の高校生には手も足も出なかった。ところが、周りの生徒たちは次々とそれに答えていくものだから、大変だった。

★ 答えられるまで立たされるシステムだったが、立たされる常連だった思い出がある。最初のテストは確か限りなく0点に近かったと思う。200点満点で。でもそれはそれなりに面白かった。
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