じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

立花隆「臨死体験」より

2021-06-29 12:37:10 | Weblog
★ 昨日は師の葬儀に参列し、40余年に渡るご指導に感謝するとともに、再び再会することを願ってお別れをした。先輩の方々、後輩、同窓の友と久々にお会いできたのがうれしかった。もはや多くが校長を最後に退職、それでも社会と何らかの形で関っておられるのが印象的だった。

★ 師に先だって、ジャーナリスト立花隆さんの訃報を聞いた。立花さんで印象に残っているのは、作曲家、武満徹さんの追悼番組だ。NHKの番組だったと思う。立花さんと武満さんは長年の交友があったという。武満さんが死を目前に、病床でバッハの「マタイ受難曲」を聞かれたというエピソード。確か「美しい曲だなぁ」と語られたという。それを紹介して、番組の終盤で号泣される立花さんの姿が強く印象に残っている。人の心を知るに、多くの言葉はいらない。その姿から、立花さんのあふれんばかりの気持ちが伝わってきた。

★ 長年、本棚に積んでいた立花隆さんの「臨死体験」を抜粋して読んだ。自らの死への恐れから始まった取材。臨死体験というのは死後の世界へと進むためのプロセスなのか、それとも弱った脳の機能が見せる幻覚なのか。

★ 仏教でいう「常見(魂は永遠で、転生を繰り返す)」なのか「断見(人生は一回きりのものか)」にも迫っている気がした。

★ 著書は膨大な体験談や専門家の取材で埋め尽くされていくが、ズルをして第29章「死のリハーサル」を読んだ。そこに、立花さんなりの結論が書かれている。要は死後のことは死んでから思い悩めばよく、せっかく生きているのであるから、「生きてる間は生きることについて思い悩むべきである」と。

★ 結局、そう言うことなのかも知れない。死を恐れ、死を思い悩んでいても、死ぬときは死ぬのだから、じたばたしてもしょうがない。

★ さて、立花さんはどうような体験をされているのか。できるものならルポしたいだろうなぁ。
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鴨長明「方丈記」

2021-06-26 14:20:47 | Weblog
★ 今朝、師の訃報を聞いた。公教育経営研究の第一人者で、学生時代から何かにつけご指導いただいた。数年前から闘病生活に入られ、余命半年と告知されたが、それから4年。病の身でありながら、父親の介護をする私をお気遣い下さる優しい方だった。遂にお別れの時が来てしまった。多くの弟子が訃報に触れ、先生との思い出に涙していることであろう。

★ 「朝に死に、夕に生まるる」は人の世の姿だという。先日、ユーチューブで養老孟司さんの「方丈記」の講演を観た。「方丈記」の中に人の世のことがすべて書かれてあるという。

★ 今までも断片的には読んでいたが、改めて鴨長明「方丈記」(角川文庫)を読んだ。

★ 「ゆく河の流れは絶えずして」で始まる日本三大随筆の1つ。仏教の無常観を背景に、50歳で出家し、市中から離れた小さな庵での遁世生活を書いている。60歳頃の作というから、死を迎える少し前か。世を捨て執着に見切りをつけ、心静かな生活を志向しながら、それでもささやかな執着から逃れられない自分自身を顧みている。

★ 「方丈記」を書き残すこと自体が、今世への執着の表れだが、そのおかげで、800年を経て、私たちは彼の心境を垣間見ることができる。

★ 人の世は無常だが、それでも天寿を全うするまで生きなければならない。いや、生きることを労苦と捉えるのは悲しい。来世への修行と捉えても良いが、それもつまらない。労苦を楽しみ、修行を喜びとするような境涯に入りたいものだ。きっと「あるがまま」で良いのだ。考えすぎず、日々楽しく生きることが何よりの修行なのだ。

★ 解釈の教育学から変革の教育学へ。この課題に挑み続けられた師の著書を読み返してみようと思った。
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藤田祐樹「ハトはなぜ首を振って歩くのか」

2021-06-23 09:47:24 | Weblog
★ ある中学校の2年生の期末テストの範囲に、藤田祐樹さんの「ハトはなぜ首を振って歩くのか」(東京書籍「新しい国語2」、本作は教科書のための書下ろしだという)が入っているので読んでみた。

★ 改めて問われてみれば、ハトの歩行スタイルは印象的だ。形態模写をするタレントもいたような。

★ 何でもないような日常の疑問にこだわり、仮説を立て、実験や観察で確かめるというところが、凡人と科学者の違いだ。藤田さんは1975年に行われたイギリスのフリードマンの実験を紹介する。フリードマンは、3つの仮説を立て、実験で実証を試みる。

★ この仮説(実験)は少々わかりづらいが、要するにハトが首を振るのは、移動する速度の変化に刺激を受けての行動でもなく、足と首の運動の連動でもなく、景色を目で追うことによるものだということが実証されたという。

★ では、なぜ景色を追うのに首を振る必要があるのか。藤田さんは、ハトの目の向き(人の目は前方を向いているのに対して、ハトの目は横か斜め前方を向いている)、そして眼球の形態の違いを指摘する。

★ 目の付き方は中学校の理科で学ぶ。肉食動物が前方にあるのに対して、草食動物は横にある。肉食動物は捕食のために遠近感を重視するのに対して、草食動物はそうした敵から身を守るために視野を広くしているのだ。

★ 論稿は国語の教科書らしく、終盤で要領よくまとめられている(ここだけ読めば、良いようなものだが、それでは味も素っ気もない)。

★ そう言えば、馬も歩く時、首を振っているような。馬と言えば、その走り方を動画で研究した人もいたなぁ。人間が歩く時、手足を逆に出すのも何か意味があるのだろう(同じだと歩きにくい)。

★ 「気になったことがあれば、自分の目で見て、自分の頭で考える。それが科学の第一歩だ」と筆者は言う。いい勉強になった。

★ こんな純粋な話とはどうも真逆なのが人間、組織の行動だ。森友公文書問題で国が「赤木ファイル」を公開したという。財務省(理財局)の組織的隠ぺいが印象的だった。出世のために時の政権に忖度するキャリア官僚、良心の呵責に堪えながら、指示に従わざるを得なかった現場職員。結果は現場担当者の死という形になってしまった。(映画やドラマのような筋立てだ)

★ 上級官僚はこれほどまでのことをして何を隠蔽しようとしたのか。そしてそれは何のためか。自然科学とは違った切り込み方がありそうだ。(真実を追うのがジャーナリズムの使命で、(官僚)組織や人の心理を追究するのは学問の使命か)。
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期末テスト対策で忙殺

2021-06-22 20:26:18 | Weblog
★ 期末テスト対策で忙殺。木曜日、金曜日がテストなので、あと2日だ。塾生が増えすぎてうれしい悲鳴。66名になる。塾長だけが運営する個人塾としてはもはや限界ライン。

★ 小学3年生に「大きな数」を指導し。4年生に「平行と垂直」、5年生に「小数のわり算」、6年生に「分数のわり算」の確認と「資料の整理」を指導。

★ 近隣の中学校は働き方改革の一環からか中間テストがなかった。そのため期末テストの範囲が恐ろしい広さだ。

★ 中学1年生、数学は「正の数・負の数」「文字と式」、社会は「世界の姿、日本の姿、人々の生活と環境、アジア州」。領土が強調されているのが印象的だ。理科は「植物の分類と特徴」「動物の特徴と分類」。動物は去年まで2年生の内容だったなぁ。国語は「飛べかもめ」など教科書通り。

★ 中学2年生、数学は「式の計算」「連立方程式」。例年、連立方程式だけでも生徒たちは苦戦する。今年はさらに難関だ。文書問題は消化不良気味だ。社会は歴史。「江戸幕府の中期から滅亡まで」。理科は生物の分野だ。「光合成」などが2年生に回されている。国語は「短歌」など。

★ 中学3年生、数学は「式の展開」「因数分解」「平方根」。ここは2回のテストに分けた方が良いと思う。社会は「日清・日露戦争から第二次世界大戦の終わりまで」。理科は「生殖」「遺伝」そして「イオン」。盛りだくさんだ。国語は「形」など。

★ 要領の良い子は範囲が広くても対応できるが、学習に遅れがあったり、勉強が苦手な子は、苦戦しそうだ。

★ 英語は期末テストとは別に、単元ごとにテストが行われている。英語は指導要領が変わり、文法中心からコミュニケーション中心に移りつつある。結局はフレーズを覚えることに終始しそうだ。読解力の低下も心配だ。生徒間の格差は広がる一方だ。

★ 中学校の期末テストが終われば、次は高校生の期末テスト対策だ。

★ 40年も同じような生活をしているが、毎年新たな発見があるのは面白い。頑張ろう。

★ さて、うちにもコロナワクチンの接種券が届いた。塾生と話していると、どうも陰謀説が流布しているらしい。ワクチンの中にマイクロチップが埋め込まれている」とか、ワクチンを開発した製薬会社が世界征服を目論んでいるとか、ワクチン接種は人口抑制策の手段だとか。まゆつば物とは思いながら、ちょっと様子見した方がいいかなとも思えてきた。どうせ、効果が出る(抗体ができる)までに数週間かかるし、有効期間はまだ未知数だという。

★ 何より注射が痛そうだ。実際、接種した人からは副反応(「腕が上がらない」等)の話を聞くしなぁ。
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浅田次郎「長く高い壁」

2021-06-17 16:19:36 | Weblog
★ 浅田次郎さんの「長く高い壁」(角川文庫)を読んだ。日中戦争の最中、関東軍は武漢攻略に向けた作戦に入る。ある大隊は万里の長城の基地にわずか30名の守備隊を残して侵攻を始める。

★ そのころ従軍作家として派遣されていた小柳逸馬に軍から要請が下る(軍の要請は命令だ)。わけが分からぬまま、検閲担当の将校・川津中尉と奥地に向かった彼は、10名の兵士の遺体を目の当たりにする。戦場での戦死なら珍しくはないのだが、どうやら戦闘による犠牲ではないらしい。小柳先生と川津中尉との探索が始まる。

★ 物語を通して、旧日本軍の姿がよくわかった。

★ ところで、どのような事態になろうとも既定方針を貫くのは、今般の東京オリンピックも同じようなものだ。そして失敗に終わってもだれも責任をとらない。そもそも「失敗」とは言わない。「失敗」はありえない。

★ 誘致した人々が悪いのか、東京都が悪いのか、政府が悪いのか、JOCやIOCが悪いのか。いやいや、すっかり商業化され肥大化したオリンピックという興行に問題があるように思える。

★ ところで、週刊文春の記事。平井大臣の肉声が印象的だ。政治家ってどうしてこんなに傲慢になれるのだろうか。それにしても、発言がいちいちリークされるっていうのはどうしたものか。「開かれた」というか、危機管理ができていないというか。なにはともあれ、文春は頑張るね。値上げする大新聞はもっと頑張ってもらわねば。そこでも商業新聞の限界か。
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映画「ポケットモンスター」(2007年)

2021-06-14 08:19:55 | Weblog
★ 塾生に勧められて、映画「ポケットモンスター ダイアモンド&パール ディアルガVSパルキアVSダークライ」(2007年)を観た。子どもの映画となめてかかっていたが、感動してしまった。

★ ポケモンコンテストに参加するため、サトシ、ヒカルたちは断崖の町(アラモスタウン)を訪れた。そこには建築家ゴーディが設計した時空の塔があり、それを取り巻く美しい庭園があった(モデルは、サクラダ・ファミリアのようだ)。しかし、時空を超えた神獣の戦闘。町は崩壊の危機に。

★ まずは何といっても多彩なモンスターたちの面白さだ。ピカチュウをはじめ可愛いキャラクターあり、ベロベルトのような愉快なキャラクターあり、どれも色彩が豊かで、これだけ見ていても楽しい。

★ 本作の主役は何といっても「ダークライ」だ。小さい体ながら神獣たちに挑む姿は、東映の仁侠映画のようだ。「ダークライ」は高倉健さんのようだ。エンディングは、「バットマン」のようでカッコいい。サラ・ブライトマンとクリス・トンプソンによるエンディングテーマ「I Will Be With You」も泣ける。

★ 子どもは子どもなりに、大人は大人なりに楽しめる映画だった。



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「象は鼻が長い」

2021-06-13 10:06:19 | Weblog
★ 中学校の期末テストが近づいてきて、何かと忙しくなってきた。今年はありがたいことに塾生が多く(もはや60人を超えた。まだ増えそうだ。1人で担当するには限界ライン)、その分、授業の準備に追われている。

★ 近隣の中学校では、英語の定期テストがなくなった。単元ごとのテストやスピーキングテストで代用するという。コミュニケーション重視の英語教育への転換。「英語の授業は英語で」というのは程遠いが、先生方も文科省の方針転換や新しい教科書の扱いに苦慮しながら(愚痴りながら)、授業を変えていこうと努力されているようだ。

★ 「英語科」は遠からず「英会話科」になるのかも知れない。しかし、文法や単語を軽視して、更には読解を軽視して、果たして意味ある会話や作文力が培われるかは、はなはだ疑問だ。ある一定の(才能にも経済的にも)恵まれた層には有効かもしれないが。

★ ところで、Youtubeを観ていると「ゆる言語学ラジオ」という番組が面白かった。言語学専門の水野さんに言語学には素人っぽい感じの堀元さんがツッコミを入れながら解説が進む。「象は鼻が長い」という文。この文の主語は何かと言う。

★ 「が・は・も」があれば主語と思い込んでいれば、「象は」も「鼻が」も主語のような感じだが、「長い」が述語だから、「象は、長い」はおかしい。「鼻が、長い」が妥当だ。では、「象は」の役割は何か。「象の」の「の」が「は」に置き換わっただけと言えばそれに尽きるが、そこにこだわるところが学問というもの。(「象はカラダが大きい」だとどうなのだろうか。ダブル主語で良いのかな)

★ 番組の中では、過去の碩学たちがこの問題にどう取り組んだのかを紹介しながら、三上章さんの解釈にたどり着く。

★ そう言えば、先日(6月5日)、朝日新聞の「古典百名山」で大澤真幸さんが三上章さんの「象は鼻が長い」を取り上げられていた。大澤さんはこの文から、日本語とヨーロッパ語の特性まで言及されている。ヨーロッパ語は主体が特権化されているのに対して、「日本語の文は、他者からの問いへの応答」「日本語では、語る主体の前に問う他者がいる」と結ばれている。

★ どうでもいいようなことにこだわること。そこに学問の萌芽があるのかも知れない。
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森村誠一「老いる意味」

2021-06-10 22:30:41 | Weblog
★ ここ数日、竹田青嗣さんの「現象学入門」(NHKブックス)、「はじめてのフッサール『現象学の理念』」(講談社現代新書)に挑んだが、どちらも30ページに至らず挫折。

★ 結局は、この世界は自分が思い描いた「思い込み」に過ぎないように思えてきた。まぁ、そうであろうと、そうでなかろうと、時間がたてば空腹になるし、疲れたら睡魔にも襲われる。結局、ローレンツ変換が光速でなければ敢えて考える必要がないように、日常生活を営む限り、現象学など無用と言えば無用なものだ。と負け惜しみを言いたくなった。(また折を見て、再チャレンジ)

★ お口直しに、森村誠一さんの「老いる意味」(中公新書ラクレ)を読んだ。森村さんと言えば、角川映画がイケイケの時代の「人間の証明」「野生の証明」。クィーンの「ボヘミアン・ラブソディ」を聞くと「人間の証明」を思い出すし、「野生の証明」の薬師丸ひろ子さんと高倉健さんは今なお印象深い。

★ 第731部隊を描いた「悪魔の飽食」(光文社)は衝撃的だった。

★ その森村さんも88歳になられたという。この間、老人性のうつや認知症に悩まれたとか。「老いる意味」は、こうした体験を踏まえて書かれた「私ドキュメンタリー」だ。

★ 「生老病死」は決して避けられない。「老」は「病」にも通じるし、やがては死に至る。「死」もまた個人差はあるものの、そう生易しいものではなさそうだ。失われていく気力、体力、それに社会との隔絶をどう受け入れるか。私にとって「孤独死」「孤立死」は他人ごとではない。

★ 現状を受け入れ、寿命のある限りどう生きてゆけば良いのか。参考になった。

★ 「人間は老いれば、病気もするし苦悩もする」しかし、「自分で『終わり』を決めつけてしまわない限り、人は楽しく生きていける。」

★ 「あきらめたら、そこで試合終了」。安西先生(「スラムダンク」)の名言を思い起こした。いつも塾生たちに語っている言葉だ。
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太宰治「竹青」

2021-06-06 16:18:00 | Weblog
★ 「現象学」というものを理解しようと書物を読むが、どうもしっくりこない。「エポケー」とか「現象学的還元」とか、結局何なのだろうか。哲学者の竹田青嗣さんがわかりやすい解説書を書かれているというので、近くの書店に寄ってみたが見当たらず、アマゾンで買おうかなどと考えている。

★ ところで竹田青嗣さんというのはペンネームで、その所以は太宰治の「竹青」にあるとか。ということで、太宰治の「竹青」(青空文庫)を読んでみた。

★ 舞台は中国。魚容という男が主人公。そこそこの家柄に生まれ、そこそこの容姿を備えていたが、両親に先立たれたことから、親戚の家を転々とする生活に甘んじる。学問をかじって聖人君主になることを夢見るが、どうも運に見放され田舎暮らしに埋没していた。

★ 恩ある伯父に勧められ、気は進まなかったものの嫁を貰う。容姿は醜く瘦せ細り、更には伯父の妾の払い下げとのうわさも。見かけ共々気も荒く、魚容は鬱屈した日々を過ごしていた。しかし、彼は尊大な自尊心と生活とのギャップに堪え切れず、周りを見返すべく、遂に妻を殴り、科挙試験をめざして故郷を出た。しかし、試験には失敗。

★ 重い足取りで故郷への帰り道。喰うにも困り行倒れ寸前。横になってウトウトしていると「竹青」という雌のカラスがやってくる。湖の神の使者、神鳥だという。一層のことカラスになりたいという魚容の願いが叶い、容姿も心も美しい「竹青」と楽しい夫婦生活を営む。しかし、ある日、軍船の兵が放った矢にあたり、瀕死の傷を負う。もはやこれまでというときに、ふと目が覚め、現実に戻る。

★ 気を取り直して、魚容は故郷に帰るが、また退屈で鬱屈した日常の繰り返し。再び出世を夢見て故郷を出るが、またしても試験に失敗。失意のどん底で「竹青」への再会を希うが、思いは通じず、いよいよ湖に身を投げようとするのだが・・・。

★ 中島敦の作品のようでもあり。芥川龍之介の作品のようでもある。しかし中島敦ほどガチガチの漢文調ではないし。芥川龍之介の「杜子春」ともちょっと違う。よくはわからないがやはり太宰流だ。

★ 最後はハッピーエンドで「良かった良かった」ということなのだが、どうも環境が変わったのは、魚容の心が変わったのが原因ようだ。人は見たいものしか見ない。見たいようにしか見ない。いわゆる「エポケー」によって、世界はガラッと変わってしまうのかも知れない。

★ それにしても「竹青」は魅力的だ。なまじ太宰の生きざまを聞きかじっているだけに、結局は女性なくしては生きること(あるいは死ぬこと)ができない彼の生き方が二重写しになる。
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小川洋子「人質の朗読会」

2021-06-05 19:28:51 | Weblog
★ 連日、新型コロナ感染症で亡くなった人の数が公表される。

★ 数字が大きくなるともはや氏名ではなく数でしか示されない。私がそのことを痛感したのは阪神淡路大震災の時だった。日に日に犠牲者の数が膨らみ、5000人に至っては、もはやその数に驚くばかりだった。そして東日本大震災。

★ 亡くなったり、行方が分からない人、一人ひとりに人生の歩みがあったに違いない。言い残したいことがあったに違いない。

★ 小川洋子さんの「人質の朗読会」(中公文庫)を読んだ。地球の反対側のある国で、日本人を乗せたバスツアーがゲリラ組織に拉致・監禁された。水面下で身代金の交渉が進んでいたが、政府軍が強行突入。犯人グループと共に、人質も犠牲となった。

★ 犯人たちの動静を知るため、アジトの様子は政府軍によって盗聴されていた。緊張の監禁状態。しかし時間がたつと人質たちはその環境に慣れ、そして、順番に自分たちの人生を語る「朗読会」が行われるようになった。その模様は、事件後ラジオで流された。

★ 一人ひとりの日常、人生が語られていた。

★ 結果として短編小説集のような形になっている。無名の人々にもそれぞれの人生があり、それを語ること、そしてそれを人に知らせることが、犠牲者への鎮魂のように感じた。
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