じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

給与格差

2007-09-28 15:01:07 | Weblog
★ 年収1000万円以上の給与所得者が増える一方で、年収200万円以下の人々が大きく増えていると言う。給与格差が歴然となった。

★ デパートでは高級品の売り上げが増えているという。一方で、非正規雇用などの問題は深刻である。

★ まだ20代前半なら「フリーター」然のライフスタイルも良いが、いつまでもアルバイトで暮らしてはいけない。

★ 昇級も見込めないし、就労の安定性もない。年をとったら使い捨てと言うのが目に見えている。結局、生活保護を受けるか、ホームレスになるか。社会不安も助長される。

★ そもそも人材派遣の自由化が問題なのではないか。自由化するなら最低賃金の改善や雇用の安定など、それなりのセーフティネットをはる必要があろう。

★ 空転する国会。国会議員の面々には空転分の給与を国に返せ、空転にかかる税金のムダを弁償しろと言いたい。彼らに庶民の気持ちが分かるのだろうか。
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土下座

2007-09-22 17:42:43 | Weblog
★ 昼のテレビを見ていると某タレントがアメリカでも「土下座」が通用するかといったおふざけ番組をやっていたが、高知県では店の対応が悪いと暴れた客が、皿を割ったり店員に暴行を加えた挙句、店員に土下座させたという。

★ この「土下座」事件。警官が中に入り、事を収めるために客の求めに応じて店側に「土下座」を促したと言うからびっくりだ。

★ 本来なら、器物破損、暴行罪あるいは傷害罪で客を検挙するのが警察の役目ではないのか。何か特殊な事情でもあるのだろうか。

★ それにしても、「土下座」させて気が済むという客も程度が知れている。相手に土下座させて優越感に浸って、それで満足とは。

★ 一方、店員の屈辱感はどれほどだろうか。「土下座」など本来許されるものではなかろう。加害者が赤心から謝罪する気持ちがあってこそ「土下座」というカタチも認められる。

★ どのような事情があるにせよ「土下座」をさせた客には割り切れないものを感じるし、それを容認し、あるいは促した警察の対応は不適切極まりない。

★ そういえば、ドラマ「ライフ」の中で、クラスの人々が一人の生徒に土下座させて「謝れ」と強要する場面があったが、昔の「ムラ社会」の悪しき名残だろうか。
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苦境のNOVA

2007-09-21 11:15:04 | Weblog
★ 英会話業界最大手のNOVAが全教室の約20%にあたる200教室の廃止・統合を検討しているという。

★ 思い起こせば20年ぐらい前、英会話業界は日本人講師によるクラス制が中心だったが、NOVAは外国人講師による(予約による)自由出席制、少人数制という商品で一躍躍り出た。

★ 今では多くの英会話学校で採用されているこのシステムだが、当時は珍しかった。

★ 外国人講師、少人数制というシステムは、主に法人対象に英会話研修を手がけていたベルリッツで採用されていたが、受講料の高さから、一般へはあまり広がっていなかった。

★ ECCでは日本人講師によるクラスシステムが成功を収めていたため、外国人講師はクラスビジットやロビートークで採用されるにとどまり、NOVAのようなシステムは一部の教室で実験が始まったばかりだった。

★ そんな中、NOVAはチケット制で1講座2000円以下の格安の商品を開発した。格安の背景には、チケット未消化分の収益(大量のチケットを購入しても消化しきれず受講をやめる)やブッキングの処理(夕刻以降予約が殺到するのをいかにさばくか)があると言われてきた。

★ 急成長の原動力となったこの商品が、苦境を招くことにもなった。

★ ともかく1000教室というのは凄まじい怪気炎だった。受講生40万人(実質は不明だが)というのも業界ではダントツだ。

★ NOVAが登場した時代、関西では、ECC、バイリンガル、アンビックが競う合っていた。それにUCLA(後にトーザと改称)が参入してきた。そのうち、バイリンガル、トーザは破綻し、アンビックはジオスとイーオンに分裂した。ECCは多角化し、総合教育機関への道を歩んだ。

★ タレントを使ったテレビCMで、まず受講者を飛躍的に増やしたのはECCだ。NOVAは後発だが、「駅前留学」「NOVAうさぎ」が受けた。

★ 今にしてみれば批判されることの多いNOVAだが、NOVAの商品が業界に与えた影響は大きい。時代の要請がNOVAを成長させたといっても過言ではなかろう。

★ 企業の栄枯盛衰はつきものだが、大きく飛躍を遂げた時こそが危ない。どこでつまずいたのか、今後のためにも検証をしたいものだ。再生ができるのか、今後のNOVAも見ていきたいものだ。
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「ゆとり」の終焉

2007-09-19 10:22:39 | 教育
★ 小学校の算数に「台形の面積」、中学校の数学に「解の公式」「球の表面積、体積」「立体の面積比、体積比」が復活すると言う。

★ 何と言うことはない。要するに10年前に逆戻りするだけの話である。

★ 予想はしていたが、「ゆとり」で揺れた10年。その揺れ返しの10年になるのか。

★ 何はともあれ、「発展的学習」などといった中途半端な扱いではなく、正式に教えられるようになることは歓迎したい。

★ 「七・五・三」と言われるように、多くの内容を盛り込んでもどうせ未消化で終わってしまうのだから、内容を縮減し完全習得をめざす、「ゆとり」を支持するのにこうした考え方もあった。

★ しかし、内容を簡単にしたところで消化不良は解消せず、全体的な「学力」の低下と格差の拡大が起こっただけだった。(週5日制の影響も大きいと思うが)

★ もちろん「ゆとり」には、旧来型の「学力」に対する疑問があり、それが「新しい学力観」という概念や「総合的な学習」というカタチになったのだろうが、その成果が十分に吟味されることもなく、先祖返りすることになった。

★ 「新しい学力観」は時期尚早だったのか、それとも方向性に問題があったのか。政治的な根回しに失敗したのか。

★ 少子高齢化と低い経済成長が続く中で、再び「ゆとり」が復活するかどうかはわからないが、「ゆとり」の失敗同様、旧来の教育が行き詰ってしまっているのも事実だ。

★ 日本の国家観や教育像が定まらない中で、「これだ」というものは定めにくく(こんんなものは永久に、ないのかもしれないが)、また社会における「学校」の位置づけも大きく変化している。「公」と「私」の関係も揺れ動いている。

★ 旧態に戻すだけなら知恵がない。何を反省し、何を改革するのか、将来のためにも明確にしてほしいものだ。

★ 道徳(徳育)の「教科」化が先送りになったのは、山崎中教審会長の尽力によるところであろう。山崎氏の知見と勇気ある発言は賞賛に値する。安倍内閣のような性急な国家主義化は避けるべきだ。政治的な変化が起こって良かった。
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心の劣化

2007-09-18 10:35:26 | Weblog
★ 神戸市須磨区の私立高校生による恐喝自殺事件。これも一種のいじめだろう。同様の事件は後を絶たない。

★ テレビでは「ライフ」が中高生の間で人気を得ている。「いじめ」をテーマとした人気コミックをドラマにしたものだが、登場してくる大人も子どももみんな病んでいる。

★ しかし、生徒たちの話を聞くとこうした「いじめ」は日常化しているという。彼らにとって「いじめ」が遊び化しているようだ。人をいじめて遊ぶ。人をからかってうっぷんを晴らす。誰かをいじめることによって連帯感を維持する。

★ 確かに病んでいる。

★ いや「病んでる」と思いたい。これが人間の本質だとすると救いが無い。

★ ターゲットはある意味誰でもよいようだ。1週間ごとにターゲットが変わることもあるという。男女に差は無い。

★ 衝動的に暴力を振るう男の子が目立つようになってきた。女の子は人間関係に異常に敏感になっている。人間が臆病になっているのかもしれない。何かに怯えているのかもしれない。

★ 親子関係も問題だ。特に母親と男の子の親密性。親離れ子離れがなかなかできない人たちがいる。そして放任。一部にネグレクトとも思えるような放任の親がいる。

★ マネーゲームに興じる人々。所得も学力も格差が拡大し、「希望」さえ格差が生じていると言う。格差の固定化。携帯電話やインターネットなどの技術革新によって変わる生活。

★ 昨夜の報道ステーションで古舘キャスターは「心の劣化」という表現を使っていたが、確かにそうかもしれない。特にここ30年ぐらい、特にこの10年間ぐらいの変化は激烈に感じる。

★ 教育が改革されようと何も改善されない。進むべき方向が間違っているのかもしれない。
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ゆとり教育

2007-09-15 11:41:34 | 教育
★ 理科の教科書に「イオン」「進化」が復活すると言う。他の教科でも「ゆとり教育」の名のもとに削除されたり、発展的学習にされたものが復活するのだろう。

★ そもそも先の内容削減は乱暴だった。週5日制、「総合的な学習」の導入といった物理的な制約を背景に、授業時間の削減=教授内容の削減となったわけだが、無理な削減の結果、教科としての体系化が崩れたり、先送りされた負担がすべて高校教育に課された。

★ その結果、高校では7時間授業や土曜講座など過酷なスケジュールに追われ、競争原理の導入とあいまって序列化、予備校化が一気に進んだ。

★ 一方、義務教育段階では、家庭学習時間の減少、格差の拡大により、それが学力差となって表れている。(親の所得と学力との関係も深刻ではないか)

★ これから年末にかけて3連休が目白押しである。飛び石的な3連休は「ゆとり」よりも子どもたちの学習の遅滞をもたらすのではないか。

★ 教職員の労働条件を背景とした週5日制。この大人の理由と子どもたちの学習過程は必ずしも一致しないのではないか。そもそも「ゆとり」とは何だろうか。私の時代は今よりはるかに過密な学校スケジュールだったと思うが、学校行事は充実していたし、音楽や美術など国、数、社、理、英以外の教科もより充実していたように思う。

★ 今は窮屈な教育課程の中で、学校行事は徹底的に削減され、主要5教科以外は極めて軽視されている。学校教育が極めて偏ったものになっているのではないか。

★ 言われて久しいが「ゆとり」を奪う「ゆとり教育」である。

★ 「イオン」を教えずに水の電気分解を教えるのは難しかったが、これは改善されてよかった。子どもたちが知識や視野を広げていける教育内容の組み立てであって欲しいものだ。

★ 問題の多い教育再生会議は中途半端な形で終わりそうだ。安倍総理の政治的パフォーマンス以外にどういう意味があったのかは今後の検証に待つところだが、「ゆとり教育」に終止符を打つといった儀式としては価値があったのだろう。

★ ただ、昔に戻るだけなら進歩はないし、「ゆとり」そのものは大切であろう。大きくは日本という国の国家の将来像にかかわる問題だが、どういう教育をめざすのか、そのためにいかなる教育目標、教育内容、教育方法を採用し、それを実現するために教職員のあり方や教育法体系、教育行政、学校経営のあり方を考えていく必要があろう。

★ 教育改革に終わりは無い。常に国家百年の体系を念頭に改革を継続して欲しいものだ。ここ10数年の歩みはまさに国家観のゆれを背景に、教育界は混乱するばかりだった。
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