じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

右傾化への懸念

2007-03-30 21:46:31 | Weblog
★ 道徳の教科化に続いて、高校の教科書検定が話題になっている。細かい点はさておき概して言えば、過去の傷にできるだけ触れないでおこう、過去の過ちに目を向けることは国を誇る心情に水を差す、といったところだろうか。過度に自己卑下する必要はないが、事実に目をそむけるのは良くない。また徐々にこうした流れに反対意見が言いにくくなってきているようにも思う。言論の自由は何としても守らなければならない。マスメディアもこの点は死守して欲しいものだ。

★ おりしも、番組改ざんについて総務省は関西テレビに警告を発した。再びまちがいを起こせば電波を止めるという含みももたしているという。番組の改ざんはもっての外だが、国家権力につけ入るスキを与えてはいけない。権力の監視はマスメディアに課された最大の使命ではないか。メディアが政府の顔色を伺って番組をつくるようでは民主主義が崩壊する。

★ 視聴率争いやバカバカしいバラエティもよいが、退いてはいけない一線があることをマスメディアは心してほしいね。

★ 蛇足ながら、与党の中にも良識ある、心ある人は多いと思う。安倍氏(あるいは安倍氏の母体である町村派)を取り囲む人々の暴走を何としても食い止めて欲しいものだ。
コメント

教育再生会議・ニ次報告骨格

2007-03-29 13:33:10 | 教育
★ 教育再生会議の二次報告の骨格が決まったと言う。

★ まず、小学生に1週間の自然体験。どうも表の意味合いと裏の意味合いが混在して難しい企画だね。表の意味合いとしては、ボーイスカウトのようなもので自然の中で団体生活を体験させようと言うものだろう。その狙いは悪くない。裏の意味合いとしては、教練のように規律で縛ろうと言うものではないか。当然、国旗掲揚なども実施されるのだろう。シンゾーユーゲントの養成か。そこまで首相にカリスマ性はないけれど。あるいは企業戦士養成の地獄の特訓か。

★ それにいつ、どこで、どういう形でやるのだろう。再生会議の提言だから、青少年事業団がやっているようなものではなく、もっと強制に近いものだと思うが。机上論ではどうしようもないなぁ。再生会議の提言にはこうした机上論が多いように思う。

★ 中学生の勤労体験はよいが、体制づくりをしっかりしてから実施して欲しいものだ。

★ 教科としての道徳の新設と道徳教科書の作成も提言されているが、戦前の「修身」に近くなってきたなぁ。教科書ができてもそれを読み流すだけでは、為政者の自己満足でしかない。教科として評定するに至っては愚の骨頂だ。「お上」に従順な臣民を養成するなど時代錯誤もはなはだしい。国家主義への郷愁ではなく、心を揺り動かし、人生を左右するような教材、授業を実現して欲しいものだ。

★ 形だけつくっても意味がない。時間とカネと労力のムダだ。とにかく政府の一部の取り巻きだけで日本の将来を左右する教育政策を決めるのは止めて欲しいものだ。それも性急過ぎる。
コメント

曖昧な通知票

2007-03-28 12:38:09 | 教育
★ 千葉県では県立高校受験に際し、中学校から提出される内申書(調査書)を独自の計算式で修正すると言う。

★ この背景には絶対評価のためか、学校間であるいは教師間で評定に大きな差が見られるという現実がある。

★ 京都府でも公立高校受験では中学校の成績が重視されている。当日のテストの点数が200点に対し、調査書の点数が195点だから、約半分が内申書(調査書)の点数と言うことになる。

★ 日常の学習を重視しようという基本方針は結構なことだ。(背景には調査書を武器に生徒を管理しようと言う意図も見られるが・・・)ただこの評点の基準は曖昧である。

★ 中学校間のレベル差や個々の教師の甘さ辛さも大きな問題だ。

★ 法的に定められている学籍簿の記述にしてこのありさまだから、通知票に至ってはもっといいかげんなものだ。最近は定期テストの結果(素点)を生徒(保護者)に返す学校も多いと思うが、テストそのものも標準化されていないし、日常の学習状況の評価では主観が入る。

★ 最近はつけられた成績に納得がいかず、学校に説明を求める親も増えているとか。成績が即進路に関わるのだから、親としてもほってはおけない。

★ 実際、教師によるつけ間違いもあるようで、抗議すれば成績が変わったという話も聞く。声高に言った者が得をするというのもどうかと思う。うるさい親には「障らぬ神」なら公教育の根幹が危うくなる。

★ 教師が記入をミスするなどはもっての外だが、混乱を避けるためにはもっと明確な基準が必要なのではないか。
コメント (1)

男子の本懐

2007-03-23 00:39:32 | 
★ 城山三郎さんが亡くなられた。

★ 城山さんの作品は、ダイエー創業者である中内氏をモデルにしたといわれる「価格破壊」や田中正造を描いた「辛酸」などを読んだ。中でも一番好きな作品は「男子の本懐」である。金解禁を実行した浜口雄幸首相と井上準之助蔵相との物語である。克明な取材と資料の読み込みにより、小説と言う形式ではあるが歴史書と読んでもよいほどの作品である。

★ 確かNHKでもドラマ化された。浜口首相を北大路欣也氏が井上蔵相を近藤正臣氏が演じていた。どちらもいいキャスティングだった。新潮文庫の巻末では赤松大麓氏がこの作品を評されているが、まさにこの作品にしてこの読み手ありと言えるほどの名解説であると思う。

★ 「男子の本懐」。浜口首相が東京駅で凶弾に倒れたとき発した言葉だと言う。とても感慨深い言葉だ。

★ 私にとって「男子の本懐」とは何であろうか。この作品を始めて呼んだときそう思った。それから20年以上も経過し、今尚、目標も定まらずさまよっている自分を恥じ入るばかりである。

★ 城山さんのご冥福をお祈りいたします。
コメント

ER

2007-03-20 00:51:53 | Weblog
★ 久々にERを見たら、カーターがカウンティーを去るというエピソードだった。

★ ERは回を重ねて11シーズンになっていた。まだ続くようだ。私はファーストシーズンから見ていて、カーターが学生からインターン、レジデント、スタッフドクターと成長していくのが楽しかった。

★ ERから大スターになったダグ(J・クルーニー)、キャロル・ハザウェイ婦長、スーザン(後に復帰)、ベントンとオリジナルメンバーが去り、8シーズンでグリーン先生が亡くなった時点で私の中のERというドラマは一段落した。

★ 印象に残っているのは、グリーン先生が後に訴えられることになる出産事故のエピソード。ミミ・レダー監督だったと思うが、傑作だった。グリーン先生が野戦病院さながらの活躍で病院にあふれた患者を治療するエピソードも良かった。自分勝手な行動で窮地に陥ったダグが子どもの命を救い名誉を挽回するエピソード、タイトルバックにも使われたベントンの空手のポーズ、グリーン先生とスーザン先生の駅での別れのシーン、キャロルがダグを追いかけてダグと再開するシーン。

★ グリーン先生の最後は泣けたな。グリーン先生がカウンティを去る日、カーターに「任せたよ」といったシーンも良かった。

★ メインのドクターたちを支えるわき役の人々もいいなぁ。

★ 話は戻って、カーター先生。彼が去った後、話はどう続くんだろうねぇ。
コメント

教育反動化

2007-03-18 13:44:01 | 教育
★ 政策は振り子のようなもので右に振れたり左に振れたり、それ自体は自然なことかも知れない。しかし、あまり振れすぎると危険だ。こぎすぎたブランコのように。

★ 教育政策のことである。

★ 「ゆとり教育」に対する反動が凄まじい。確かに「ゆとり教育」が目指そうとしていた理念が必ずしも社会に受け入れられなかったのは事実だ。これが「ゆとり教育」の不完全さによるものなのか、未成熟さによるものなのか、時代を先走りすぎたのか、あるいは理念そのものが間違っていたのか、それは後世の批判を待たねばならない。

★ しかし昨今の反動、ただ「授業時間を増やせ」「競争させよ」的な動きは冷静に見ておく必要がある。現内閣は功を焦っているのか性急過ぎる面がある。他の政策はいざ知らず教育に関して性急は道を誤りかねない。

★ 確かに週5日制は多くの弊害をもたらした。これは教育的な観点からの改革ではなく労働者としての教員の待遇改善のための改革だったからだ。社会に受け入れる体制がないにもかかわらず野に放たれた生徒たちが行き場もなく怠惰に流れたのは致し方のないことだ。

★ 週5日制を実施するならするで、生徒たちを受け入れる社会基盤が必要だった。そんなことは当初からわかっていたが、見切り発車されたのは周知の通りだ。

★ だから土曜日半日分授業を再開すれば良いものを、そこを無理に突っ張るものだから1日7時間授業だとか、夏休み、春休みの短縮だとかを行わざるをえなくなる。

★ そうした詰め込みは何が問題か。それは子ども達に無用な「多忙さ」を課し、また子ども達が学校に囲い込まれることにより、社会の学校化が進むからである。ただでさえ機能不全を起こしている学校に更に負担を課すこともどうかと思う。

★ 学校に囲い込むのではなく、子ども達を社会に放ち、社会の中で彼らの学習(広義)をサポートするシステムはできないものであろうか。

★ ここぞとばかりの反動化は、経済格差と同じように学力格差を益々助長するように思える。伸びる子を大いに伸ばしてやるのは結構なことだ。そうした意味での学力格差は致し方のないことだ。ただ学力を大学それもブランド大学への進学に偏重してとらえることはどうか。もっと多様な能力開発があって良いように思うのだが。
コメント

渥美清さんの人物伝

2007-03-12 04:24:14 | Weblog
★ NHK-BSで「寅さん」こと渥美清さんの人物伝をやっていた。

★ 「寅さん」シリーズは48本制作されたんだね。映画界が花形産業から斜陽産業に移り変わる中で、48本も制作が重ねられたことはすごいとしか言いようがない。渥美さんとしては「寅さん」を演じきったすごさと「寅さん」を演じるがために他の役を演じることができなくなったジレンマが紹介されていた。そういえば確かに「八つ墓村」で金田一探偵を演じられていたが、寅さんの印象が強かった覚えがある。金田一と言えば石坂浩二さんか古谷一行さんのイメージがある。

★ 「寅さん」以外の役で印象に残っている渥美さんは、「パンシロン」のCMとテレビドラマ「泣いてたまるか」のシリーズだ。「泣いてたまるか」は面白かった。昭和40年代前半だったと思う。まだ白黒だった。渥美さんのシリーズと青島さんのシリーズがあった。青島さんのシリーズでは犬が人間になった話が印象に残っている。

★ 渥美さんのシリーズでは、散髪屋の親子が主人公で父親役の渥美さんがガンに冒され、息子の散髪コンクールを見ながら死んでいくといったエピソードが好きだった。当時はまだ若かった渥美さんが老け役を演じられており、内容も喜劇ではなく悲しい作品だったが、それだけに印象に残っている。

★ 「空が泣いたら雨が降る」のテーマソングは今でも印象に残っている。なつかしいドラマだ。
コメント

鹿児島県議選「でっちあげ」事件について

2007-03-08 22:52:22 | 事件
★ 鹿児島県議選・選挙違反「でっちあげ」事件。鹿児島地検が控訴を断念し、被告とされた方々の無罪が確定する。

★ 警察、検察にとってこれほどお粗末な事態はない。当時の鹿児島県警本部長が文書で注意を受けたそうだが、それだけで終わる事件ではない。

★ でっちあげの真相、取調べの不当さを追及して欲しいものだ。名誉は回復されたとはいえ被告とされた方々が受けられた苦悩は筆舌に尽くしがたい。これを一片の紙切れで尻拭いされたのでは、とうてい割が合わない。

★ 警察庁、検察の自浄作用に期待したいところだが、公務員が公務員を調べ糺すということはどうも難しそうなので、こういうときこそマスコミ、マスメディアに奮闘してもらいたいものだ。

★ 警察、検察の闇、また「でっちあげに」至った背景を克明に追及して欲しいものだ。再び冤罪を起こさないためにも必要な検証であろうと思う。
コメント

京進事件で判決

2007-03-06 22:50:48 | 事件
★ 京進神明校で起こった事件、犯人の元講師に懲役18年の判決が下った。

★ この事件は塾業界にいろいろな波紋を巻き起こした。特に神明校はうちの家から1キロぐらいしか離れていないので、事件が起こった後数ヶ月はこの話題でもちきりだった。

★ 朝、元気な子どもを送りだした親御さんにとっては、何とも言いようのない出来事だ。犯人を死刑にしてもあきたらない。

★ 結局は「アスペルガー症候群」として減刑(求刑は無期懲役)されたねぇ。でもこんな事件が起こると「自閉症」への偏見が助長されるなぁ。

★ 弁護側としては被害者の刑を減刑するために精神的な異常さを訴えるのだが、何でもそれが通るようなら、殺人を犯す人間は大なり小なり、恒常的であれ一時的であれ、精神的に異常だと思うんだけれどなぁ。

★ 懲役18年が妥当かどうかはわからないが、殺された少女が帰ってこないのは事実だ。本当にかわいそうだ。

★ そしてこうした講師を採用し教壇に立たせていた「京進」という会社にも大きな責任がある。会社としてまさか不可抗力のようには思っていないとは思うが、今年も「京進」の広告を見るたびに複雑な心境になる。「安心と安全」という言葉は白々しくさえある。

★ 企業が利潤を追求するため拡大していくのはわかるが、「教育」という商品をもっと大切にして欲しかったなと思う。後の祭りになってしまうのが悲しいところだが。

★ 第2の被害は絶対避けなければいけない。
コメント

外部評価

2007-03-02 10:57:18 | 教育
★ 外部評価が大流行である。

★ 官民を問わず不祥事が続く中で、もはや自己チェックには限界があるということだろうか。性善説から性悪説への大転回といっても良かろう。人や組織は放っておくと悪さをするから「見てるぞ」という緊張感を常に維持しようと言うものか。そうした点では、外部評価も意味があるのだろうが、外部評価のあり方、コスト、主体性の点で課題があるように思える。

★ 外部評価といっても重要なのは誰が何をどのように評価するかということだろう。形だけの外部評価をしたってそんなのはまやかしでしかなく、かえって信頼を失わせる。しかるべき人がしかるべき基準で評価しなければ意味がない。もちろんこの「しかるべき」というのが曲者ではあるが。

★ そしてそうした外部評価はボランティアで行われるものではなくコストが発生する。例えば、食の安全性=外部評価なら、食品業者はコストを払っても評価を受けざるをえなくなる。零細企業はもちろんのこと大企業にとってもこの負担はバカにならないのではないか。

★ 当然「評価」を売り物にする企業あるいはNPOの羽振りが良くなるだろう。私のような塾業界でも「外部評価」の波は目前まで来ているのかも知れない。たとえそうなってもお墨付きが金で買えるような状況は避けてほしいものだ。それに天下り役人の影がちらつくに至ってはお払い下げだ。

★ そして主体性の問題。評価ばかりを気にしていたのでは本業がおろそかになる。評価の枠組みにこだわっていては新しいことができにくくなるかもしれない。人や組織が主体性をより強く持つための外部評価であって欲しいものだ。

★ 公教育にも外部評価が実施されようとしている。学区が自由化され市場原理が導入されれば、評価は避けられない。教育委員会や単位学校も評価にさらされるし、教員の評価はもう少しずつ始まっている。評価は悪いことではないが、評価の意味を常に見直さないと単なるランキングづくりになってしまう。実施が目前の学力テストもその際の大きな指標として利用されてしまう。 
コメント