じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

労働時間

2006-05-31 23:37:25 | Weblog
★ 「サイバーエージェント」、藤田社長のブログを見ていると藤田社長は若いときに週110時間働いていたと言うことが書かれていた。今や週40時間労働時代。110時間と言うのは過労死してもおかしくない数字だ。若さもあっただろうし多分ストレス発散のテクニック(いや、働くことがストレス発散だったのかも)も持っていたから実現できたのだと思う。それにしても一国一城の主になるためにはこれくらいは働かなくてはならないのか。

★ 先日、弊塾の卒業生が一部上場の半導体関連の企業にアルバイト(この企業ではまずアルバイトとして試用し、使えると思ったら契約社員にするらしい。正社員にはほとんどなれない)として採用されたが、そのあまりに過酷な(?)労働に耐えられず1週間で逃げるが如く辞めてきた。

★ 労働基準法など関係なく、みんな自主的にバリバリと残業しているそうだ。仕事が山積しまたそれを無理やりこなしている社員(契約社員やバイトだけど)がいるからこそ、この企業は伸びているのかもしれない。まぁ、自主的(?)なサービス残業なので、基準監督庁からのお咎めもないようで、というか不満な人はさっさと辞めていき、過酷な労働に順応できた人だけが会社の中で生き残っていくのだが、高度成長期のモーレツ社員を思わせる話だったので興味深く聞いていた。週休2日制になってのんびりしているのは、どうやらお役所だけかもしれない。

★ 自分自身も振り返ってみた。自営業だとどこまでが仕事でどこからがプライベートな時間なのかの区別がつきにくい。更に自宅が職場となると本当に区別がなくなる。一応、平日は4時半から10時までの5時間半が、そして週末は個別指導中心に土曜日は8時間、日曜日は6時間が授業時間となる。それに授業の準備をしたり、経営関連(お金の計算や銀行へ行ったり、広告を作ったり、企画を考えたり、教材を作ったり)を加えると、さて、どこまでが労働時間かな。

★ 仕事といってもこの生活は楽しみでもあるから、趣味的な生活ともいえる。好きなことをやってお金がもらえているのだから、不満は言うまい。
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教員免許の更新制

2006-05-26 13:06:16 | 教育
★ 教員免許の更新制が話題になっている。といっても話としてはずっと以前から言われていたことで、いよいよ実施に向けて文科省も本腰を入れてきたなぁって感じだ。

★ 「教員」という職業。大学で教員免許を取得し、各都道府県や政令市で実施される採用試験に合格するれば名簿に登載され、そこから各学校に割り振りされることとなる。最近までは教員の採用が控えられていたので、大学を出てすぐに採用というよりは、講師経験をしてから採用されるというケースも多かった。いずれにせよ、22~23歳頃に採用されると特に希望退職しない限り、定年退職まで「教員」という身分を保証されることとなる。

★ しかし、社会の状況は変化するし、人間の能力や適性も移り変わるものである。能力は必ずしもスキルアップするものではないし、年とともに体力が衰えるのは致し方のないことである。それを経験でカバーできる人もあれば、不適応を起こす人もある。これはどのような職業においてもありうることだ。ただ一般の企業では他の部門への配置転換や転職などによって解決を図るのだが、教員の場合は配置転換もままならず、また高齢になってからの転職と言っても難しい。教員として不適応を起こした人を民間企業は積極的に採用しようとは思わないだろう。

★ 父母からの要求も高くなってきている。その一部は父母のエゴによるものだが、確かに指導力に疑問符のつく教員も多い。採用試験が難関なため基礎能力は昔の教員に比べはるかに優れていると思う。しかしそれでも不適応を起こしてしまうのは、「学校」そのものが変質しているといったこともあろうが、どちらかといえば「やんちゃ」な人よりも「優秀(真面目で試験に強い)」な人が採用されてきたことによるのかも知れない。「優秀」な教員が自己の体験では想像もつかないような事態に遭遇したとき、学級もそして自分自身も制御不能になってしまうのだ。

★ といって「やんちゃ」な人ばかりを採用するわけにはいかないが、要は一定量の教員を常に入れ替え、多様な個性を持った人を教員として採用すると共に、教員という職業をもっと多様化し、人事を柔軟にする必要があろう。例えば、スクールリーダーをめざす人がいてもいいし、授業のエキスパートをめざす人がいてもいいし、カウンセラーをめざす人がいてもいいわけである。

★ こう考えてくると、教員免許の更新制は当然のごとく思えてくるが、最も心配なことは教員の思想統制である。折りしも教育基本法の改正で「愛国心」が論じられているが、それは具体的には、国旗や国歌の尊重にも直結するであろう。国の方針に反する教員は免許の更新をしない。これは起こりうる事態である。

★ 公立学校の教員は「公務員」であるから憲法をはじめ法律を遵守するのは当然ことであろう。しかし一方で憲法は思想、信条などの個人の基本的人権を最大に尊重している。この対立をどう解決するのかが問われることになろう。
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教職大学院

2006-05-25 13:05:31 | 教育
★ 中教審の答申に基づき教員養成についても専門の大学院が設置される。「教職大学院」という。従来の教育系の大学院が研究者養成を主とするのか教員養成を主とするのかが曖昧であるとのことから、学校で中核的・指導的な役割を担う教員を養成・研修することを目的として設置されるそうだ。当初は2007年度からの設置予定であったが、教育基本法の改正が一区切りつくまでは先送りされるようで、当面1年間の先送りとなった。教育基本法の改正もまだまだ波乱含みだが。

★ この教職大学院、法科大学院や会計大学院など専門職養成の大学院が創設ラッシュの中でいささか遅ればせながら出てきたわけだが、意図はわかるがどうも胡散臭いものも残る。あるサイトで東京大学の佐藤学先生が、今の教職大学院の構想では実務家は養成できても専門家は養成できないと言っておられたが、その通りだと思う。従来の教育系の大学院が講義中心、知識中心であったことは否定できない。これは現職研修としては一定の効果はあった(休養という意味でも・・・)が、新人教員の養成や学校経営者の養成という点では不十分であった。その点は、教員は大学院で養成するといった大前提を置くなら大いに改善されるべき点であろう。しかし教育という活動は、日々のルーティンワークをこなすだけの作業ではなく極めて創造的な営みである。確かに実務能力を高めることは大切ではあるが、マニュアル教員を育てるだけでは教育の発展は望めないのではないか。

★ 団塊の世代が退職し新人教員が増える中、この最低限の実務さえ、あるいは一般の社会常識さえ不足した人々が教壇に立つことになるかも知れない。こうした不安が背景にあるのもわからなくもない。最低限、実務だけはなんとかしてくれ、という経営側からの要求もわかる。ただ教育という営みはマニュアルで対応するにはあまりに多くの変化に富んでいると言わざるをえない。まして最近は昔のように板書講義して終わりと言う訳にはいかない。ひとり一人に目を配ることが要求されるし、父母からの要求も非常に難しいものになってきている。こうした中、付け焼刃的な実務能力ではとうてい対応できない。

★ 文部科学省の教員不信は今に始まったことではないし、できる限り自分達のコントロール下に教員を置きたいというのも従来からのことである。そのためにマニュアル教員を増やそうとしていると考えるのはちょっと過激だろうか。

★ 中教審の「教職大学院」をめぐる答申でも確かな「授業力」とあわせて豊かな「人間力」の養成が求められている。その「人間力」というのは各人の経験や教養などから湧出するものであろう。その点、東京大学の実践に期待したいし、「教職大学院」でも「人間力」という観点をそして「専門家」としての能力(問題状況に直面したときその解決に向けて行動できる臨機応変な能力)を養成して欲しいものだ。


 
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ゼロ・トレランス

2006-05-23 11:51:17 | 教育
★ 児童生徒の問題行動に対して細かい罰則規定を定めそれに従って厳密に処分を行う方式のことを「ゼロ・トレランス」(不寛容方式)と呼ぶそうだ。荒廃するアメリカ教育界に導入され、画期的な成果をあげたらしいが、一方で行き過ぎに対する反省も聞かれる。

★ 違法行為などは論外で、それに対しては厳格な対応が求められる。しかし学校側が用意した「校則」で生徒を縛り、その権力を武器に教師の権威を高めようとする姿勢には、表面的な荒廃の改善とは別の表面下での問題を生むのではないかと危惧される。教師と生徒の関係も支配者と被支配者の構図が明確となり、教師と生徒との信頼関係などといった「甘い」ことは言っておれなくなる。

★ そういうと現状の学校の危機的状況をわかっていないとお叱りを受けそうだが、確かに学校が荒廃し、危機的状況が切迫している学校においてこの方式は緊急避難的に有効だろうが(極端な話、問題児を学校から追放してしまえばよいのだから)、日常的に導入すると生徒を益々萎縮させはしないだろうか。常に教師の顔色を伺い、教師(学校の教育方針)に従順であることだけが「良い生徒」なのだろうか。

★ 「寛容」「不寛容」という立場は、教育に対する根本的な理念の違いがあるように思う。子どもは全く無知で不道徳な存在であり、「おとな」が教え導かなければならないと考えるか、子どもは無知で不道徳な存在であっても周りからの援助や自らの体験を通して「良きおとな」になっていけると考えるのか。性悪説や性善説といった古くからの考えに立脚しているようにも思える。

★ アメリカ化していく日本社会。子どもたちをめぐっても「カネ」が行動基準の多くを占め、規範や権威と言ったものに対して従うのでもなく反発するのでもなく、無視する傾向にある。コミュニケーション能力が不足し、幼児化が進み、ストレスをうまく昇華できずに「いじめ」や「キレる」といった突発的な暴力を生み出している。

★ そうした背景に社会の歪や親の教育態度あるいは生き様があるのは言うまでもないが、そういって目の前の子どもたちを放置しておくわけにはいかない。理想的には子どもたちが自らの問題状況を認識しそれを自ら改善するよう行動し、教師はそれをサポートするといったことになる。しかし現実はそんなに甘くはない。だから学校の危機的状況をまず診断し、それに応じて対処していくのが妥当であろう。緊急避難的には他の生徒に重大な被害を与えるような生徒は学校から排除し、その子に合わせた教育を施す必要があろう。事件、事故を未然に防ぐためにこうした対応をとることは学校としても勇気にいる決断だろうが、プロの教育者なら学校の状況や生徒の状況を見れば危険度の高さがおおよそ理解できよう。

★ 一般的に、温情主義を排し、確固とした指導方針で生徒と向き合うと言った姿勢は、それが生徒の反発を呼ぼうと大切なことである。反発もまたコミュニケーションであるのだから。
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自殺者3万人

2006-05-16 00:46:45 | Weblog
★ 「清水の舞台から飛び降りたつもりで」というのは、思い切って何かをすることの例えだが、本当に男性が飛び降りたらしい。江戸時代には何件もあったそうだけど、最近では珍しい。それにしても自殺者の数が年間3万人に上ると言う。ひとり一人それぞれ理由があるのだろうけれど、せっかくの命をもったいないね。

★ かつて1万人を超えていた交通事故での死者が最近は8千人程度でとまっている(これでも多いけど)ことを考えると自殺者の多さがわかる。

★ 殺人事件も後を絶たない。殺人事件のニュースを聞かない日がないくらだ。命と言うものが軽視されているね。ドンパチ式の戦争はないけれど、なんか目に見えない戦争が起こっているとった感じだ。

★ かつてデュルケムというフランスの社会学者の「自殺論」を読んだことがある。中でも、「アノミー」という概念に興味をもった。欲求がコントロールできないと言った状況のことを言うようだが、家族や地域の絆が緩み、そして物質的な欲望だけが肥大化し、その一方で現実が理想とははるかに乖離した状況にあるとき、その上、将来への希望もなくなったとき、人は自殺を考えるようだ。経済的な変動期に自殺者が増加するということだが、バブルからそれ以降の構造改革の日本社会はまさに大変動期にあたるだろう。そう考えると100年も前に書かれたこの学者の主張が実に説得力をもってくる。

★ ということは、安定した社会を築けば自殺者は減ると言うことだ。家族や地域の絆を深めることも自殺の抑止力として効果的だろう。物質的な欲求を抑えろと言うのは難しいだろうから、精神的な豊かさを高めるような営みが求められるのかな。小さなことでいいから「希望」をもてることも大切だね。
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「日本のいちばん長い日」

2006-05-12 02:53:46 | 映画
★ 久々に岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」を観た。日本のいちばん長い日、それは1945年8月15日である。太平洋戦争終戦の日。当時の政府の人々がそして軍部がこの1日をどのように迎えたか、オールスターの名優を配して描かれていた。

★ 戦争を終結させると言うのは大変なことである。特に暴走する軍部を抑えることは至難の業である。これは昨今のイラク情勢やさまざまな紛争地を見てもわかる。ただ占領軍との大きなトラブルもなく戦後急速に復興を遂げた日本のありさまは奇跡としか言いようがない。その点は、アメリカの占領政策が巧妙であったとか、「天皇制」というものをうまく利用したと言われるところだ。

★ 数百万人の死者を出し、国を壊滅的な状況に陥れた敗戦。戦争を始めた人々は決してこうした状況を予見していたわけではないだろう。世界史的な情勢はあろうが、どこかで一歩道を間違ったから、このような結果を招いてしまったのである。そして世界に目を開かず、独善に陥れた教育の責任である。

★ 今また「愛国心」が論ぜられている。為政者たちが「愛国心」をいうとき私は素直に受け入れることはできない。それは素朴に国を想う心ではなく、為政者たちに都合のよい口実として「愛国心」が利用されると危惧するからである。

★ 愛国心とは究極的には国のために殉じるということである。国とは今さら「天皇のために」とか国体の護持などといったことを主張する人は少ないであろうが、やはりそうした国家システムを自らのために利用しようとする保守政治家や財界人の影がちらついて見える。庶民が彼らのために都合よく死んでくれるための正当性として「愛国心」が利用されることを危惧するのである。

★ おりしも「共謀罪」が論議されている。これが戦前の治安維持法のように拡大解釈され人々の自由な活動が制限されることを恐れる。

★ 「平和ボケ」ということがよく言われる。アメリカの核の傘のもと安全保障を真剣に考えずただ戦争反対を唱える人々あるいは政治に無関心な人々を批判して用いられることが多い。だが逆に、先の戦争の悲惨な結末を忘れてしまうのも平和ボケの症状であろう。のど元過ぎれば熱さを忘れるというけれど、「日本のいちばん長い日」のような映画を観ると今の日本が再び誤った道を歩みつつようで非常に心配である。
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