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中也星・みすゞ星

 2週間ほど前に新聞の記事に、
 「久万高原天体観測館(愛媛)の中村彰正さんが、発見した2つの小惑星に中原中也と金子みすゞの名前を付け、国際天文学連合に正式に登録された」
という記事が載っていた。この2人の詩人はともに、中村さんの故郷山口が生んだ誇りであり、特にみすゞについては「娘の教科書で知り、声に出して読んでみたらすっかり好きになった」ため、命名したとの中村さんの談話も紹介されていた。
 中原中也と金子みすゞという私の愛する詩人が二人とも星になったというのは、実に感慨深い。人は死ねば星になると言われることもあるが、実際に星になった詩人というのは多くはないであろう。ついつい自分のことのようにうれしくなってしまう。
 金子みすゞの詩には星を歌ったものが多いが、やはり最初に心に浮かんでくるのは「みえない星」だろう。

   「みえない星」

  空のおくには何がある。

    空のおくには星がある。

  星のおくには何がある。

    星のおくにも星がある。
    眼には見えない星がある。

  みえない星は何の星。

    お供の多い王様の、
    ひとりの好きな たましいと、
    みんなに見られた踊り子の、
    かくれていたい たましいと。

 久しぶりに読み返してみたが、目にみえるものしか今そこにあるものとして認められない日ごろの己の迂闊さが恥ずかしくなる。そこにあるべきものも、そこにあってはならないものも、すべて己の作り出した思い込みに過ぎず、その思い込みによって元々そこにあったものまでも見えなくなってしまっている自分の姿が浮き彫りになってきて思わず身震いしてしまった。目に見えるものだけが実体を持つわけではなく、目に見えないだけで事実そこに存在するものを知覚できるだけの感性を常に磨いておかなければならない、改めてそんな思いに駆らた。
 
 ところで、中原中也は星を歌っただろうか?しばらく考えてみたが、すぐには浮かんでこない。月ならいくつも思い浮かんでくるが・・。

   「湖上」

  ポッカリ月が出ましたら、
  舟を浮べて出掛けませう。
  波はヒタヒタ打つでせう、
  風も少しはあるでせう。

  沖に出たらば暗いでせう、
  櫂から滴垂る水の音は
  昵懇しいものに聞こえませう、
  ――あなたの言葉の杜切れ間を。

  月は聴き耳立てるでせう、
  すこしは降りても来るでせう、
  われら接唇する時に
  月は頭上にあるでせう。

  あなたはなほも、語るでせう、
  よしないことや拗言や、
  洩らさず私は聴くでせう、
  ――けれど漕ぐ手はやめないで。

  ポッカリ月が出ましたら、
  舟を浮べて出掛けませう、
  波はヒタヒタ打つでせう、
  風も少しはあるでせう。

 中也にとって星は夜空で輝く月の陰に隠れてしまっているようだ。まるで星など眼中にないようにさえ思える。中也は星と語ったことはなかったのだろうか。正岡子規が「われに向かいて光る星あり」と歌ったような体験はなかったのだろうか・・。
 
 今の季節なら、中也星とみすゞ星は、夕方西の空低くにあるという。とは言え、肉眼では見ることはできない。しかし、その方向に向けて語りかけたら、詩人が何か答えてくれるかもしれない。
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