塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

このところの教師のトンデモ出題について:教職と知識

2010年10月31日 | 社会考

 十月も今日で終わりです。最近めっきり寒くなりました。紅葉を楽しむ暇などないままに、あっさり冬を迎えそうです。

 さて、今なお連日教師の不祥事が相次いでいますが、最近断続的ですが確実に聞かれるようになったのが、教師の不適切な授業運営です。とくに気になるのが、解答や表現に殺人や性表現を用いて問題となったという話題が急に目立ち始めたことです。

 殺人が例や解答に使われたことについて、たいていの人は「考えるまでもなく不適切なのは分かるだろうに」とか「そもそもなんでそんな例が頭に浮かぶんだ」とか思ったことでしょう。私も、思い浮かんだものはしょうがないとしても、それが実際に口から出てしまうというのが理解できません。

 こうした状況を教師の質の低下として、あるご高名な教育評論家がその原因をゲームやメディアの影響としているのを、ふとテレビで耳にしました。いわく、ゲームやアニメなどで殺したり殺されたりというシーンを繰り返し見ることで、「死」や「殺」といったフレーズに慣れてしまっているのだとか。しかし、私はこの手の「ゲーム悪玉説」には賛成できません。

 そもそも、「死」や「殺」といった言葉に慣れてしまったのが原因とするなら、そのおおもとがゲームやアニメに限られる必然性はないでしょう。私からみれば、一昔前の時代劇や戦国物の映画なんかは今よりよっぽど残虐ですし、ヤクザ物が好きな人の方がよほど血に慣れているはずです。もっといえば、斬捨御免の江戸時代の塾では二言目には殺人が例に挙がっていたことになります。つまり、「死」や「殺」に慣れているということが教師のトンデモ出題と関連しているというのなら、それは我々アニメ世代に限ったことではなく、戦前からずっと続く問題でなければならないはずです。

 ところがそうはなっておらず、わりと若い世代の教師にトンデモ出題の話題は集中しているようにみえます。ですから、ここは「短絡的言動=ゲームの影響」のようなステレオタイプから離れて、冷静に原因を探る必要があると思います。

 先にも述べたとおり、問題なのは「死」や「殺」といったフレーズが思い浮かぶことそのものではなく、それらのフレーズが口から出てしまうことにあると考えています。では、普通なら思いとどまるところを、なぜそのようなフレーズが出てしまうのか。私は、慣れてしまったために抑制がはたらかなくなったというよりは、例として挙げる選択肢の幅が極端に狭いことが問題としてあるんじゃないかと思います。つまり、普通ならそのような例が浮かんでしまったとしても、もっと良い例が他に探して、そちらをとれば済む話です。ところが、殺すだの死ぬだのというたとえの他に、子供の興味をひいたり面白いと思わせたりする話題を持ち合わせていないので、これがベストとして出てきてしまう。本人は最良のパフォーマンスをしようとしたにもかかわらず、結果がトンデモ問題となってしまったというのが、私の考えるところもっとも論理的な説明だと思います。

 つまり一言でいえば、話題の引き出しが少なすぎるということです。知識や経験が豊富であれば、それは様々な話題に対応できる引き出しとなり、人を惹き付ける力となるはずです。そして、知識や経験の多寡は、ゲームやアニメが好きかどうかとは関係していないはずです。

 私が出会った中に次のような人がいました。彼は国語教師志望で教職課程を履修していたのですが、あるとき2人で『白い巨塔』について会話をしました。ところが、なぜか話の内容が噛み合わないのです。しばらくしてお互いに気が付いたのですが、私は小説の『白い巨塔』について話していたのに対して、彼はその頃やっていたドラマの方のことを話していたのです。聞けば、彼はドラマの脚本(?)は読んだことがあるが、小説は手に取ったことがないとのこと。さらには、そういったドラマや映画の脚本系の本はよく読むが、一般の文学小説はめったに読まないと言っていました。

 別に小説の『白い巨塔』がドラマのそれより高尚だとか何とか言うつもりはありません。何に驚いたって、国語教師を目指す人間が小説は読まないと公言して平然としていることが大ショックでした。彼が教師を目指す人たちの中でどの程度スタンダードなのかはわかりません。ただ、もしそういう人が相当数いるとすれば、これはかなり大問題だと思われます。もちろん、文学青年でなくても国語の教科書は読めますし、公立校の指導要領程度のことは教えられるでしょう。しかし、それ以上のことは教えられません。そのくせつまらない教師と思われることを極度に恐れるあまり、少ない話題の引き出しを引っ掻き回して、普通なら使わないような例が表に出てしまう。それがこの頃になってトンデモ教師の問題として顕現することになったのだと、私は考えています。文学を知らない国語教師、英米の歴史や社会を知らない英語教師、歴史に対して何の私的考察も持たない社会科教師、植物や生物に造詣の薄い理科教師etc…。このような足元の見え透いた教師たちがいくら気勢を張って面白おかしくしようとしたって、授業が面白くなるはずがありません。

 実生活でだって、話の面白い人というのは決まって話題の豊富な人です。決してブラックジョークや下ネタを連呼する人ではないはずです。1対1の会話と異なり、教師は数十人の目を自分に惹き付けなければならないのですから、なおのこと大変です。翻って、だからこそ人より一層知識の獲得に努めなければならず、だからこそこれまで教師というのは尊敬される対象だったのではないでしょうか。

 最後にもう1つ。これは単なる直観なので付け加えるだけですが、評論家も猫も杓子もやれ「若者の質の低下」だの「ゲームの影響」だのと上から下を眺めるように憂えています。しかし、現にそうだとしても、彼らのいう若者は勝手にそう育ったわけではありません。その上の世代の教育によって、下の世代は育てられ、上の世代はさらにその上の世代に育てられてきました。つまり、質が低下しているのなら、それは今突然に下がったのではなく、少なくとも数世代という期間を経て継続的に下がっているはずなのです。今の世代の質が低下しているのなら、その責任はその前の世代に大きくのしかかっているはずです。その責任に目もくれず、育ったお前たちが悪いというのは、問題を解決しようという姿勢からは程遠いように思われます。

  
知識なくして説得力・魅力なし


  



仙台探訪⑥:仙台駅

2010年10月28日 | 仙台

 ぼちぼち書いている仙台探訪シリーズ第6弾です。今回は仙台駅を取り上げます。地元の人にとっては、駅は単なる通過点ですが、観光客にとってはその町の玄関なんですよね。

 仙台駅は、テレビなどでもときたま出てくるので、その外観は割と知られているように思います。仙台っ子の自慢といえば、なんといってもペデストリアンデッキ(歩行回廊)でしょう。仙台駅のペデストリアンデッキは日本最大級といわれ、西口一帯を信号などに煩わされることなく移動することができます。また、道幅は広く樹木が植えられ座るスペースも設けられているため、待ち合わせや路上ライブなどにも利用されています。

 
仙台駅とペデストリアンデッキ


 さて、ペデストリアンデッキに立ったら、ふっと目線を下げてみましょう。タクシープールに常に大量のタクシーが正方形にぴっちり並んでいるのが見えるはずです。仙台はタクシーが非常に多いことでも知られています。10年ほど前に規制緩和されてからは、雨後の筍のごとくに新しいタクシー会社が参入し、輪にかけてタクシー過剰な状態になっています。駅前では、順番待ちのタクシーが北朝鮮の軍事パレードのように並んでいるのです。以前、外国人が面白そうにこのようすを写真に撮っているのを見かけました。

 
駅前のタクシープール。これでも少なめです。


 駅前から北側を望むと、再開発ビルのアエル(AER)があります。下層が商業施設で、最上階に展望スペースと聘珍樓が入っています。仙台は、意外と高層ビルは少なく、今年に森トラストのトラストタワーに抜かれるまではこのアエルが仙台一(東北一)の高層ビルでした。自分は上まで行ったことがないのですが、周囲に遮るものがないので、おそらくかなり眺望は良いのではないかと思います。

 
アエルの手前にある仙台マークワン。
アエルはこのすぐ裏にあります。


 話を駅に戻しましょう。仙台といえば、10人中7・8人は「牛タン」という声が返ってきます(自分は別に仙台じゃなくても、と思うんですが)。ところが、以前は駅内には牛タンの定食屋がありませんでした。そこで、新幹線の改札脇に「牛たん通り」と「すし通り」がつくられ、それぞれの有名店が軒を並べるようになりました。

 
「牛たん通り」「すし通り」の入口


 観光客や出張族で連日にぎわっているのですが、無理やりつくったスペースなので、どの店も店内は狭くあっという間に満席になってしまいます。すし通りはそれほどでもないですが、牛たん通りの方はしょっちゅう行列ができています。「利久」や「㐂助」といったメジャーな店に行ってみたいという人は覚悟して並んでもらうより仕方ありません。ただ、もしそれほどこだわらないというのであれば、僕は駅の1階や地下にある「伊達の牛たん」をおすすめします。こちらの方が店が広くて満杯になることはあまりありませんし、仙台は牛たん+テールスープ+麦飯+味噌漬けのセットはどの店でも変わりません。
 
 あまり知られていないように思いますが、駅の地下には牛たんのほかにも仙台のお土産が一通りそろっています。笹かまや銘菓などの食品はもちろん、お酒や塗り物などまで大抵の仙台土産はここで手に入ります。

 仙台駅といえば、駅弁が有名です。駅構内やホームでも買えるのですが、2階エスカレーター脇の売り場がおそらく一番充実しています。仙台駅弁が有名なのは、「こばやし」と「伯養軒」という二大会社がしのぎを削ってきたからですが、近年ここに「日本レストランエンタープライズ(NRE)」というJR東日本の子会社が参入してきました。JRの子会社ということで、あの手この手で何とかNREの弁当を買わせようとかなり露骨な販促戦略を用いているのですが、本物の仙台駅弁を食べてみたいという方は、できるだけ「こばやし」か「伯養軒」の弁当を選びましょう。

 
2階エスカレーター脇の弁当売場


 仙台駅そのものについてご紹介するところは、こんなところでしょうか。1記事につき写真は5枚までという規制があるので、駅前についてはまた回を改めてお送りしたいと思います。

  



この頃茂みに流行るもの

2010年10月23日 | 徒然
  
 秋の日は釣瓶落とし。この間まで暑い日が続いていたかと思ったら、もう5時には暗い季節となりました。今年の夏を振り返ると、とにもかくにも「猛暑」の一言につきます。さまざまな記録を更新した異常なまでの暑さは、人に限らず多くの生物に影響を与えているようです。

 猛暑の影響と思われる中で今最も世間を騒がせているのが、各地で頻繁に人里へ姿を見せるようになった熊でしょう。異常気象により山中のエサが不足し、食料を求めて次々と麓へ降りてきているということです。

 もう1つ言われていて、おそらく多くの人が感じているであろうことに、蚊が減っているというのがあります。僕は今年結局一度も蚊に喰われませんでした。以前は、夏なのに蚊にあまり喰われないというと不健康な生活を送っているような気分になったものですが、今年については外に出ても蚊そのものをほとんど見かけていません。

 もっとも原因については、暑さでボウフラの住む水たまりが干上がってしまったからだとか、そもそも蚊自体も暑さでやられてしまったのだなど諸説あってはっきりしないようです。

 さて、ここからが本題ですが、蚊とは対照的に今年明らかに増えているだろうと思われる虫がいます。それは蜘蛛です。僕は毎年のように藪や野山へでかけますが、例年と比べて今年は明らかに蜘蛛の数が多く、また1匹1匹が大きく立派になっています。とくにこのところ、ジョロウグモが産卵の時期を迎えているらしく、腹がパンパンに膨れた5㎝オーバーのメスをそこかしこで見ることができます。

 誰かに訊ねてみたわけでもなく、統計をとったわけでもないので、あくまで僕個人の意見の域を出ませんが、おそらく間違ってないと思うのです。

 そこで、「今年は蜘蛛が増え、個体も大きくなっている」と仮定したうえで、何故そうなったのでしょうか。単純に考えて、個体が増えるということは天敵が減っているということ、個体が大きくなっているということはエサが増えているということではないかと思われます。

 蜘蛛の天敵は、鳥かと思いきや蜂などの肉食昆虫や他の蜘蛛を捕食する蜘蛛だそうです。そういえば、今年は昨年ほどまだ蜂の被害が聞かれないようにも思われます。あるいは蚊と同じように、蜂も暑すぎて活動が鈍っていたのかもしれません。さらには、蚊や蜂に限らず蜘蛛と異なり硬い殻に覆われた昆虫が軒並み弱っていたとすれば、蜘蛛の個体数が「減らない」ことに寄与したと考えることができます。

 つぎに、エサが増えたということについては、エサの絶対数が増えたというよりは蜘蛛の巣に引っかかる量が増えたと考えることができるように思います。すなわち蜘蛛のエサは小昆虫ですから、前の仮説にしたがえば、活動が弱ってフラフラと飛んでいるところを次々と網に引っ掛かってしまったと推測することができます。

 仮定の上に仮定を重ねて、何とも意味のない推論になってしまいました。しかし、蜘蛛が増えているのは間違いないと思いますので、外に出たら道の脇に注目しながら歩いてみてください。逆に、蜘蛛が苦手な方はできるだけ前を見て歩くようにしましょう(笑)。

 最後に、今年撮った蜘蛛たちのプロマイド(?)を掲載します。苦手な方は絶対に見ないでください。興味のある方、勇気のある方のみ「追記」を開いてご覧ください。。

  


 


 


 




時代劇の間違い:「であえ~」といって出会うのは?

2010年10月20日 | 徒然

 今回は駄文です。水戸黄門の新シリーズが先週から始まったそうですね。だからといって観ているわけではありませんが。

 水戸黄門に限らず、時代劇というものは多かれ少なかれツッコミどころには事欠かないドラマです。将軍様が江戸市中をぶらぶらしてるわけがないとか、実戦で剣を振るった数少ない剣豪である柳生宗章や足利義輝でさえ命を懸けても十数人を倒すのが精一杯だったのに、そう簡単にバッタバッタと敵をなぎ倒せるわけがないとか、黄門様は諸国漫遊どころか関東から出たことがないとか。

 そんななかで、今回はちょっと穴場(?)と言えるかもしれないツッコミどころをご紹介しようと思います。水戸黄門なんかでは、舞台は割と地方の小都市であることが多いです。そこでは、藩の目の届かない出先の代官所で、お代官と地元の商人、そしてゴロツキの親分が結託して住民を搾取しようとする、というお決まりの構図が展開しています。さらにそれを暴こうとする主人公らとの間で乱闘になるのが常です。このとき、「曲者じゃ、であえ~であえ~」の掛け声とともに代官の左右からわらわらと部下の武士が出てくるさまは、想像に難くないと思います。

 ところが、このシーンに1つ確実なウソがあります。それは出てくる部下の数です。みなさんは、代官所のような出先機関にどのくらいの人数がいたと思いますか?江戸時代の大名の領地というのは結構モザイク状で、あちこちに飛び地がありました。ですから、大名や旗本は遠隔の飛び地や交通の要衝などに陣屋を設け、政務をある程度代行させていました。城めぐりという趣味から、僕はいくつかこういった陣屋の跡を訪ねたことがあります。そこで毎回知るのは、普段詰めていた役人の数のあまりの少なさです。

 まず代官と呼ばれる陣屋の責任者が1人。そして大抵、それに加えて役人が2~4人程度しかいないというのです。確かによくよく考えれば、各藩とも財政が厳しいなか、そんなにやることは多くないだろう飛び地の陣屋に無駄な人員を配置するはずもありません。ですから、全部で4、5人いれば飛び地の統治など事足りたのでしょう。

 つまり、どんなにあくどい代官がいて、そこに正義のヒーローが乗り込んだとしても、飛び出して襲い掛かってくるのはほんの数人ということになります。このことは、おそらく他の時代劇にも当てはまることだと思います。当然、時代劇としてはまったくサマにならないわけですが、まぁ本当に時代性を考えればこんなものなんでしょうね。

 ちなみに僕は最近、必殺仕事人にハマっています。。

  

 



ノーベル平和賞と尖閣諸島問題:中国の対応もまずくはないか?

2010年10月15日 | 政治
  
 書かなくないペーパーがいくつかあって、更新が滞ってしまいました。最近少しずつ時間の感覚がおかしくなってきています。

 さて、少し間が開いてしまっているあいだに、チリ鉱山事故の救出作戦や小沢一郎氏の強制起訴など重要なニュースが結構ありました。そんな中で、今回気になったのは中国のノーベル平和賞に対する対応についてです。

 中国共産党政権から見れば反体制派活動家である劉暁波氏のノーベル平和賞受賞に関して、中国政府は賞の発表前から神経を尖らせていたことが盛んに報じられています。しかし、伝えられているところの中国政府の工作は、彼らにとってかなり「まずい」ものだったのではないかと思っています。

 中国政府が恐れるのは、劉氏の受賞によって国内の民主化への機運が高まり、反体制運動につながることだといわれています。しかし他方で、これまでの言論封殺により、劉氏の中国国内での知名度はほとんど無きに等しいと聞いています。そして劉氏の受賞後も、徹底した言論統制によりこの状況は変わっていないようです。とすれば、劉氏が受賞しようがしまいが、国内を厳しく統率すればあまり影響はないものといえます。もちろん、受賞によって諸外国での関心が高まり、中国国外からの民主化要求が寄せられることは予想されます。しかし、いくら諸外国が民主化を要求する声明を出したところで、国内政治にまでは干渉できません。要は、とにかく黙って耐えて、国内を締め付けながら嵐が過ぎるのをひたすら待っていれば良かったわけです。それを、わざわざ受賞者発表前に知られる形で異議申し立てをしたというのが果たして合目的的だったのか。第一の疑問として湧いてきます。

 ただ、劉氏が受賞するよりもしない方が、中国政府にとって良いことは自明です。ですから、異議申し立てをすることそのものは、戦略として誤っているとまではいえないでしょう。しかし、次に疑問に思われるのは、異議を唱えるにしても何故おおっぴらに、しかも中国政府が直々にノルウェー政府に抗議するなどという方法をとったのか、という点です。そもそも、受賞者を決めるノーベル委員会はノルウェー議会が任命するそうですが、委員会はあくまで政治的には独立した機関であるとされています。ですから、文句があるなら直接委員会に言えばいいものを、何故ノルウェー政府に対して抗議したのか、いまひとつ合点がいきません。

 加えて、ノルウェーに対する圧力は中国の外務次官らを通じてかけられていたといわれています。しかし、秘密裏に政治的圧力をかけたり交渉を持とうとする場合、通常は政府外の第三者を使者にたてるものではないかと思います。政府外交筋がそう簡単に腰を動かしてしまっては、容易に嗅ぎつけられてしまうのは当然といえます。すなわち、ノーベル賞受賞者の選考に関して、政府が政府に抗議するというのは、手法として問題があったのではないかという気がします。

 ひとことでいえば、余計なことをした割には十分に効果を挙げていない、ということでしょう。そしてこのことは、翻って先月の尖閣諸島問題にも現れているように思われます。

 尖閣諸島中国船衝突事件での、日本政府の対応がすこぶるまずかったことについては、以前このブログでも記事にしたとおりです。今なお、菅政権が中国人船長を釈放したことについて、弱腰外交として非難が続いています。それでは、中国の方は日本の弱腰につけこんで「うまく」やったといえるのでしょうか。私は、中国政府の対応もそれなりに「まずかった」のではないかと考えています。

 尖閣諸島は、中国が領有権を主張しているとはいえ、日本が実効支配しています。こと離島の領有問題においては、北方領土や竹島を見れば分かるとおり、どれだけ証拠を並べて領有権を訴えても、結局のところ現下実効支配している方が圧倒的に有利です。ですから、いくら禁輸だ交友停止だ国交中断だと締め付け攻勢に出たところで、相手の実効支配をひっぺがさないことには、領有問題に対する優劣は変わりません。船長の釈放について、日本国内では折角の人質を圧力に屈して手放してしまったと嘆かれていますが、最大の人質は島そのものであり、日本はそれを手放してはいないのです。

 逆に中国の身になれば、大攻勢に出たにもかかわらず島は手に入らず、領有問題に対する優位は少しも得られませんでした。それどころか、南沙諸島など他の地域でも領土問題を抱える中国にとって、相手国との緊張をいたずらに高める危険性をもたらしたと考えられます。領土問題というものは、進展や形成の逆転が望めない限り、口だけで主張を繰り返すのが、得はしないが損もない均衡状態であると思うのです。今回の漁船衝突問題においては、口すっぱく船長の釈放を求め続け、見えないプレッシャーをかけ続けるのが、中国政府にとって最良の戦略だったのではないかなと思います。

 実際の中国は、あの手この手で目に見える締め付け策をとってきたわけですが、そんな中でレアアースの禁輸というのは、中国にとって愚中の愚だったのではないかと考えています。というのも、ノーベル平和賞のときと同じく、呼ばなくていい世界中の警戒感をわざわざ集めてしまう結果となるからです。

 レアアースは、現在中国で世界産出量シェアの9割強を占めているそうです。これはかなり極端な偏り方であり、かえって中国はその配分には気を遣う必要があります。ところが今回、中国は日本に対してレアアースの通関を差し止めたとされています(中国政府は否定しているそうですが)。このことは、日本のみならずレアアースを必要とする諸外国に、「中国は容易にレアアース禁輸に踏み込み得る」という強烈なシグナルとして受け止められたはずです。当然、各国はレアアースの中国依存からの脱却を加速させることになるでしょう。実際、日本はカザフスタンやモンゴルなど中央アジア各国における掘削権の獲得を進めているそうです。もちろん、一国が産出シェアの9割強を占めるというのは問題であり、遅かれ早かれ一国依存からの脱却が模索されることには違いないでしょう。ただ、今回の禁輸によってその動きが加速したとするなら、中国としては拙策だったといわざるを得ないでしょう。

 このように、拙速かつ無駄な動きの目立つ中国政府ですが、背景には一体何があるのか。報道や有識者の間では、中国政府内でのアピール目的であるとする見解が見受けられますが、私もそのように思います。アピール目的であるというのは容易に想像がつくとして、その対象が国民ではなく政権内部であるという点がミソといえます。私は中国の専門家ではないので、中国の内部事情に明るいわけではありません。ただ、これら2つの問題での対応からこの点は指摘できます。

 ノーベル平和賞受賞者選考における中国政府の無駄に目立つ抗議は、かえって委員会や各国の反発を招く結果となりました。この抗議活動がアピール目的を孕んでいたとすると、その対象は従来の反日活動のような国民向けのものではありえません。当の劉暁波氏の話題が国内ではタブーなわけですから。次に尖閣諸島問題においても、もし反日感情を煽りたいのであれば、船長返還よりも国内の焚きつけにいそしんでいれば良いはずです。むしろ、船長が拘束され続けていたほうが、「日本はひどいやつだ」と煽り続けられるので好都合なくらいです。しかし今回、中国政府は拙策に走ってまで船長返還やノーベル賞への抗議に躍起となりました。じっとしていれば良いところを、わざわざ動いて目先の勝利を得ようとする。そのような、近視眼的な実績を誇示する相手が国民でないとするならば、それは政局内部ということになります。すなわち、「ちゃんとやることはやってるんだぞ。」「俺たちには実力があるんだぞ。」ということを政府内に示していると考えるのが、一番妥当なように思われるのです。

 繰り返しますが、私は専門家ではないので、あくまでここに書いたことは私の所感に過ぎません。また、中国の身になってみればというレトリックで話を進めていますが、決して中国政府を擁護しようというのではありません。一連の対応で中国政府内の微妙な空気が見え隠れしているわけですが、中国がこの先徐々にでも開かれた国へと変容していくことを望んでいます。