塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

関ヶ原考③決戦のタイミング

2008年04月17日 | 歴史
  
 徳川家康が美濃赤坂に陣を張ると、大垣城で対峙していた西軍のうち島津義弘らが夜襲を提言したが、三成は首を縦には振らなかった。また、兵の士気高揚を図って三成の家老島左近らが杭瀬川の戦いで東軍を挑発しても、家康は腰を上げなかった。

 そんな両者がなぜ、申し合わせたかのように関ヶ原に場所を移しての短期決戦へとうごいたのだろうか。この点について、史料的実証を行う能力は持っていないので、あくまで論理的演繹的に考察してみたい。
 
 そこでまず、両者の情報について同じ条件を設定したい。すなわち関ヶ原の決戦前夜、東軍の背後には徳川秀忠率いる約3万8千の兵が中山道を進軍しており、西軍の背後では大津城攻めに1万5千、そして伊勢方面に安濃津城や桑名城を攻略・守備した兵が控えていた。ここで、両軍ともそれぞれ自軍の援軍の戦況しか入ってこないものと仮定する。たとえば、家康は秀忠軍の遅延は知っていても、西軍支隊の大津城攻略が手こずっていることは知らないとする。

 無茶な設定ではあるが、実証ができない以上演繹的考察の手法上このように条件をそろえることにする。

 ここから、まず決戦前までの三成の心境を推し測る。西軍には、現場の総大将が五奉行の一人とはいえ、12万石程度の文官に過ぎないという弱みと、実際の盟主である毛利輝元が幼君豊臣秀頼とともに大坂城にいるという強みの両方があった。

 しかし、当の頼みの秀頼や輝元は、いくら催促しても大坂から動かず、仕方なく当座の大将と担いだ豊臣家一族の小早川秀秋は、松尾山に陣を構えてこれまた動こうとしない。大坂公認という後ろ盾が欲しい三成は、大垣城に長陣を敷きながら焦っていたはずである。そこへ、大津城や安濃津城攻略に当たっていた後続軍の苦戦が伝えられていたとすれば、焦りは更に高まったに違いない。

 そこへ、家康本隊が着陣した。西軍には動揺が走った。杭瀬川の戦いで勝ちを収めたものの、ここにさらに後続の軍が加われば、旗色は一気に悪くなる。

 三成はここで選択を迫られた。そこへ、突如として東軍進軍の急報が入る。前回述べたように、三成としては東軍の関ヶ原突破は危機であった。だが、この押し迫った局面にあって、東軍の関ヶ原転進は好機とも捉えられたのではないだろうか。つまり、家康の関ヶ原決戦の申込は、陰にも陽にも引き受ける時と映ったのではないだろうか。

 次に家康について考えてみる。家康にとっての弱みは、奸臣家康打倒の名のもとに大坂を出発した西軍に対して、三成が挙兵したから西進するという、大義名分に欠ける点であった。東軍の内訳は、三成憎しの秀吉恩顧大名や、勝ち馬に乗りたいだけ(これは西軍も同じだが)の日和見大名の集団である。小山会議で一応の結束を確認したものの、用心から家康は容易に江戸を発たず、先鋒隊が岐阜城を落としてようやく腰を上げた。

 東軍は赤坂に陣を張り、大垣城の西軍とにらみ合った。家康の到着後、杭瀬川の戦いで西軍の挑発を受けた。にもかかわらずすぐには動かなかったのは、何かを待っていたからだとすれば、それは徳川秀忠率いる別働隊に他あるまい。秀忠には9月10日までに赤坂に到着するよう指示が出ていたが(関ヶ原本戦は9月15日)、真田昌幸の上田城攻略に苦戦していたため、結局決戦には間に合わなかった。

 この遅滞を徳川自前の兵を温存するための故意によるものとする歴史家もいるが、上田での敗戦振りはその域を大きく超えている。そもそも、決戦時に既に2万ほど兵力の劣る家康が、先の仮定に従っていつ西軍に更なる援軍が加わるか分からない状況で、兵力の温存などと悠長なことを言っていられたかどうかは非常に怪しい。

 この時の家康には、なかなかやってこない援軍を待ち続ける選択肢もあっただろう。長陣が続けば、各地で戦っている大名が消耗するという利点もあるが、ただ逆の心配もあった。

 それは、天下への野望を抱き長期戦を望む梟雄の存在である。関ヶ原の戦いが短期決戦で終わったことで、予定が狂ってしまった人物が少なくとも二人いるといわれている。奥州の伊達政宗と、九州の黒田如水である。

 政宗は、福島で山形の最上氏と上杉氏が共倒れになるのを待ち構えていた。また豊前中津の如水も、九州を転戦して着々と勢力を広げていた。大垣での対陣が長引けば、政宗や如水をはじめ、各地戦で消耗した小勢力を次々に取り込んで、本当に天下を狙えるほどの勢力が成長しかねなかった。その可能性が視野に入っていたからこそ、家康は完全な優位を確立するまで待たずに、関ヶ原決戦の誘いをかけたと考えることができる。

 こうして両者ともに短期決戦へと傾いてゆき、おそらくは前回の記事で述べたように、関ヶ原で衝突することは了解の上で、両者夜陰に紛れて移動を始めたのではないかと考えられるのである。