塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

沖縄「屈辱の日」雑感

2013年04月30日 | 政治
  
 非常にデリケートな問題であり、いつも以上に反発を買いそうな話題ですが、どうしても直感的な違和感をぬぐえないので、今回記事にすることにしました。あくまで個人的一意見としてみていただければ幸いです。

 一昨日4月28日は、昭和二十六年(1951)に調印されたサンフランシスコ平和条約が発効し、日本が主権を回復して国際社会に復帰した日であるとして、政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が開かれた。これに対し、沖縄では平和条約発効後も昭和四十七年(1972)までアメリカの施政下に留め置かれたことから、この日を「屈辱の日」としてさまざまな集会やイベントが催された。

 沖縄からみれば、もちろん一足先に「国家」として主権を回復した本土に対して取り残されたという感情を抱くのは避けられないことであったろうし、アメリカの施政下において対共産圏の橋頭堡として基地が建設されていったのだとすれば、現在にまで至る基地問題の発端の1つとして苦々しく感じるのも理解できる。

 しかし、都内で「屈辱の日」イベントへの理解や参加を求めるビラを配ったり、政府に対して沖縄切り捨てとの非難を浴びせているという報道に触れるにあたって、「それはちょっと違うんじゃないのか?」という強い違和感を覚えた。

 頭のなかでしばし整理してみると、私の違和感は2つの疑問に分けられる。1つは、日本の主権回復を祝うことは、沖縄を無視するということとイコールではないだろうという点だ。安倍総理自身が式典のスピーチで述べているように、「日本に主権が戻ってきた日に、奄美、小笠原、沖縄の施政権は日本から切り離れた。(中略)沖縄が経てきた辛苦に、深く思いを寄せる努力をすべきだと訴えようと思う。」という形で、主権回復を祝うと同時に沖縄をはじめとする取り残された地域のことを深く考え直す日であるとすることに、なんら論理的(心情的にも)矛盾はない。むしろ、「屈辱の日」をあまりに強調しすぎれば、この日をもって改めて沖縄の問題について考え直そうと真摯に思っている人たちに対して冷や水を浴びせる結果になるように思われる。

 2つ目の違和感は、こうして「屈辱の日」をひたすら前面に掲げて突き進む人たちは、いったい何を求めているのか、どうすれば満足なのか?という点だ。都内でビラを撒いている人たちの願いが、日本国民全員が4月28日を「屈辱の日」と捉えることであるとするならば、それは無茶な希望というものだ。4月28日が、それまで敗戦・占領によって「国家」としては消滅していた日本が再び「国家」として認められた節目の日である、という事実は厳然としてあるわけであり、この日を主権回復の日としてはいけないというのは理論上不可能だ。

 実際のところ、沖縄の人たちが日本政府に苛立ちや憤りを覚えていることはあっても、喧嘩を売りたいのだとは思えない。その苛立ちの原因は、やはり何といっても基地問題であろう。だとすれば、基地問題を解決するという大目的に対して、「屈辱の日」を押し立ててシュプレヒコールを上げるというのは、まったく合理的でないように思えてならない。

 そもそも基地を置いているのは日本ではなくアメリカなので、基地をどかすという目的から出発すれば、まずやるべきはアメリカに基地を移したいと思わせる環境づくりであろう。つまり、シュプレヒコールを上げるなら相手は日本政府ではなくアメリカであるべきであり、二言目には県外移設というのであれば、きついようだが自分達で代替の土地の目星くらいは提供しなければならないと私は考えている。多くの人々が沖縄の現状に「同情」しているが、同情心とは自分が第三者であるからこそ芽生えるものであって、自分が当事者になった途端に露骨な迷惑顔に変貌するものだ。同情に訴えて物事が達成されるという例は、残念ながら歴史的にはほとんどないように思われる。

 こうした「沖縄v.s日本政府」のような奇妙な国内対立の最大の弊害と思われる事態がついに現実のものとなった。中国外務省傘下の外交誌『世界知識』に、「現在に至るまで日本は沖縄に対する合法的主権を持っていない」と主張する論文が掲載されたと、時事通信が報じた。内容自体はそこまで危険視するようなものではないように思われるが、タイミングがあまりに絶妙すぎる。今回の事態を見越して論文を用意していた、とまではいかないものの、このようなチャンスを狙って前々から温めていたか、「屈辱の日」イベントの盛り上がりを知って急遽書き上げたかのどちらかではなかろうか。もちろん、このような論文が出たからといって、即座に沖縄までが領土・領海的に中国に脅かされるというということはないだろう。だが、中国にこうしてつけ入る隙を与えたということは、憂慮すべき事実だ。

 「屈辱の日」関連の報道で私がみたなかには、「沖縄が置かれた歴史や現状を分かってもらわないと、47番目の都道府県にはなれない」という趣旨の沖縄県民の発言もあった。その方に私はこう問いたい。「あなたは沖縄が中国の24番目の省ないし6番目の自治区になっても良いのですか?」

 誤解があっては困るが、私は沖縄の基地問題はできるだけ早く解決すべきだと思っているし、沖縄が1972年まで日本から切り離されていた歴史を本州人として心苦しく感じているし、沖縄に非情な犠牲を強いた旧日本軍軍部には憤りを覚えている。だからこそ、沖縄の人たちには、もっと目的合理的に動いて、本懐を遂げてもらいたいと願ってならない。生意気極まりないのことを言っているのは承知の上だが、このままでは沖縄の為にも日本全体の為にもならないのは間違いないように思う。

  



幸せ運ぶ黄色いケロリン桶

2013年04月22日 | 徒然
  
 新宿の東急ハンズへ珈琲グッズを買いにいったときのこと、エスカレーターを上がって目の前にうずたかく積まれた黄色い桶の山に思わず目を奪われました。そう、銭湯に行ったことのある人ならだれでも知っているケロリンの湯桶です。

 一目惚れした私は、これは買わねばならぬと1つ購入し、帰りのラッシュの電車のなかを邪魔にならぬよう抱えて帰りました。さっそく愛用していますが、ご家庭のお風呂で銭湯や古い旅館のテイストを味わえるなかなかオツで実用的な一品です。

 

 思えば、先月にこのケロリン桶がなくなるかもという報道を聞いていたのも、私の衝動をより大きくした一因と考えられます。ケロリン桶は、高度経済成長期に内外製薬が自社の鎮痛剤ケロリンを宣伝するために製造されるようになったと聞いています。

 実際には、睦和商事という会社が湯桶を広告に用いるというアイデアを持ちかけ、内外製薬から委託を受けて販売・営業していました。ところが、今年の3月になってこの睦和商事が経営破綻してしまったことから、ケロリン桶の運命やいかに?といった話につながったようです。現在は、内外製薬自身がケロリン桶の販売業務を引き継いでおり、端からみれば以前と変わらず、というところに落ち着いたようです。

 とはいえ、睦和商事はケロリン桶だけでもっていたわけではないでしょうが、銭湯の減少や大規模温浴施設の普及等により、ケロリン桶の需要が減っていることは確かなのでしょう。こうして、これまでは風呂屋でしか見かけなかったケロリン桶が家庭向けに販売されるようになったのは、内外製薬がケロリン桶の販路拡大を図っているものと解釈するべきなのかな、と感じます。他方で、一週間に1020個という製造ペースを崩すつもりはないようなので、そこまでヒットさせることは狙っていないようですが。

 と、記事を書きながら内外製薬のHPを確認したところ、現在ケロリン桶は東急ハンズとロフトのみで販売しているそうです。湯桶ですから、買って邪魔になるということはありませんし、ノスタルジーや面白味を感じる方は是非ひとつ買ってみてはいかがでしょうか。

  



アクロス福岡:建築から自然への歩み寄り

2013年04月17日 | 旅行
  
 今回はちょっとした建物のご紹介です。

 先月の九州旅行で福岡に行った際の観光目的地の1つに、アクロス福岡という複合施設ビルディングがありました。1995年に落成した地上14階、地下4階建てのなかなかに大きな近代建築なのですが、その特筆すべきは何といっても建物南面にあります。

 北側からみれば、ガラスを多用したよくある近代的なビルなのですが、南面は階段状になっており、段の上にはびっしりと草木が生い茂っています。コンセプトはずばり「山」だそうで、下層部には人工の沢や池、滝まであり、気象条件によっては颪まで吹くそうです。

 

 残念だったのは、訪れたのが弥生ということで落葉している木々が多く、ちょっと寒々とした景観になっていたことですが、万緑の季節ともなれば本当にビルなのか山なのか分からないくらいに青々とするのでしょう。

 この緑のテラスは、建物の外側から階段で屋上まで登ることができます。地上14階建てですから、結構なハイキングになります。ですが、途中の水のせせらぎや小鳥の鳴き声に耳を澄ませば、ここが都会のビルであることを忘れて清々しく足を運べます。

 
 
 

 
登り途中の風景×3


 屋上からは、普通のビルやタワーの展望台とはちょっと違う、爽やかな景色が広がります。こんなところに興味を持つ人は多くはなかろうと思っていましたが、意外と私の他にもハイキング客(笑)が結構いて、しかも半数以上は若者でした。

 
屋上からの眺望(大宰府方面)


 私がこの建物についてとくに素晴らしいと思うのは、テラスに植えられている植物の多くが、一般的には「雑木」とみられているマイナーな種類であるというところです。普通なら、このような緑化区域にはやれ桜だ梅だサツキだハーブだと、メジャーで見栄えや香りの良い品種を単一で植えるところでしょう。そこをあえて地味な雑木を繁茂させることで、より里山の景観に近づけようという試みが、私には何とも斬新で小気味よく感じられます。

 このテラス部分は、田瀬理夫さんという造園家の方が設計されたそうです。田瀬氏は町屋建築などにも携わっておられるようですが、新しい建築の試みが建築家ではなく造園家の方から呈されたというのは、グローバル化の流れとして歓迎すべきでもあり、日本の建築家は一体何をやっているのかと残念にも思います。

 日本を代表する建築家といわれた安藤〇雄氏や黒川〇章氏といった人たちが、国立新美術館のような自然と人間の営みから遠く離れた建築を量産し、同潤会アパートや京都河原町三条といった日本の温かみ溢れる風景を無機物へ一変させている日本建築の現状をみると(黒川氏は故人ですが)、このアクロス福岡のような新しい試みができるだけ早く浸透してくれることを願わずにはいられません。アクロス福岡は、人間を建築の前に圧倒させようとするのではなく、建築を自然や人間の営みの方へ近づけようとする、根本的な意識の転換のようなものを感じさせる作品といえるように思います。

 



旧蹟の早慶戦:大隈重信旧宅vs. 福沢諭吉旧居

2013年04月11日 | 旅行
  
 ようやく全快しました。こちらの方もだいぶ間があいてしまいましたが、リハビリ程度につまらない記事でも書こうと思います。

 ここ数回の記事を読んでいただくと、私が九州へちょいと長旅をしていたことがバレてしまうと思いますが、まぁ隠すことでもないのでこの先おりをみては九州旅行記事でネタ不足をカバーしていくかもしれません(笑)。

 で、タイトルのとおり、大隈重信公の故郷佐賀と福沢諭吉先生の故郷中津も訪ねてまいりましたので、意味もなくお2人の旧居でもアップしてみたら面白いかなぁ、と^^;

 

 

 何の前触れもなく写真を載せましたが、上が大隈公旧宅、下が福沢先生旧居です。パッと見、大隈邸の方が立派ですね。実際、大隈家が35万石の大藩佐賀藩の上級藩士だったのに対し、福沢家は10万石の中津藩の下級藩士だったそうです。

 ちなみに、この大隈邸は重信公自身の生家でもありますが、福沢邸はそうではありません。諭吉翁は父百助の勤務地であった大坂の蔵屋敷で生まれています。わずか1歳半のときに父が他界したため、残された一家は中津へ引き上げます。この時に住んだ家も、上の写真の旧宅ではありません。上の旧宅は後に移り住んだ家で、当初の住まいは残っていません。

 ただ、後に諭吉翁自身が当時を回想して書き記したとされる間取りのメモが残っており、それをもとに現在旧宅の脇に移住当初の家の間取りが地表復元されています(下の写真)。

 

 これを見ると、どうも最初の家は現在の旧宅よりも細長くて狭いように思います。江戸時代の下級武士のリアルな生活が垣間見えるようです。

 さて、旧宅くらべでは明らかに大隈邸の方が規模が大きいとみえるわけですが、このことは敷地内に鎮座する2人の銅像でもいえます。大隈公像が見上げるような立派なブロンズ像なのに対して、福沢先生のそれはおそらく等身大の胸像です。だからなんだというわけでもないのですが、土地柄…というよりもお2人それぞれに対する崇敬の仕方のようなものが現れているようにも感じられます。

 
大隈重信公像


 
一万円像…もとい福沢諭吉先生像


 最後はどーしよもない小噺で〆に。中津で一泊して、繁華街で地元の珍味を飲み食いしてきたのですが、歩いて思ったのがやたらとスナックが多い!とても人口10万に満たない地方都市とは思えないほどスナックの妖しい看板が煌々としています。理由は分かりませんが、人口1人当たりのスナックの数を統計で出したら、おそらく中津は最上位に来るのではないかと思います(笑)。

  



病欠届。

2013年04月05日 | カテゴリ無し
  
 今週のはじめに急性扁桃炎にかかってしまい、40℃の高熱にうなされながら毎日抗生剤の点滴を打ちに通院しておりました。こうしてパソコンに向かえるほどにはよくなりましたが、本復は来週になりそうです。

 小生は普段風邪をひいても熱が出ることはほとんどなく、また物心ついてからインフルエンザに罹ったこともないので、熱にうなされるという体験がとてもフレッシュで辛かったです。高熱に脳がオーバークラッシュして頭痛がひどく、とにかく2日ほどロクに眠れませんでした。

 扁桃炎は流行性の病気ではないようなのでお気を付け下さい、というわけにもいかないようですが、何でも熱が出たらさすがに医者ですね。そんなわけで、桜花舞い散るこの卯月のはじめを正岡子規のごとく病床で過ごしております。