塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

『テルマエ・ロマエ』と『グラディエーター』:ローマ時代ものつながりで。

2012年07月08日 | 書評

 昨日は七夕だったんですね。気づきもしませんでした^^;まぁ、雨だったので問題ないといえば問題ないですが(笑)。今ウィンブルドンの男子決勝を見ながらブログを書いてます。

 さて、突然ですが、今年の4月に公開された映画『テルマエ・ロマエ』を御存じでしょうか。古代ローマと現在の日本の浴場文化を題材としたものですが、公開前からあちこちでだいぶ宣伝されていたので結構売れたようです。私は原作の漫画を知人に紹介されて映画化前に読んだのですが、映画の方には食指も動いていません(自分で話を振っておいてなんですが)。

 むしろ、映画化に合わせて漫画の方のあらすじとスタイルが大きく変わってしまいました。早くもネタ切れかな?という気もするのですが、それ以前の内容を面白いと思っていた私には残念です。いずれにせよ、映画にしろコミックにしろ、内容や評価についてはレビューがいくらでもあるでしょうからそちらにお任せします。

 で、私が書きたかったのは、映画が流行っているのをみてコミックの方を読み返していたら、別の映画が観たくなったという話です。2000年に公開されたラッセル・クロウ主演の『グラディエーター』です。『テルマエ・ロマエ』は五賢帝時代の3人目、ハドリアヌス帝の末期ごろが舞台ですが、『グラディエーター』は『テルマエ・ロマエ』に青年として登場する五賢帝の最後、マルクス・アウレリウス帝とその子コモドゥスの時代が舞台となっています。『グラディエーター』には浴場は登場せず、『テルマエ・ロマエ』にも剣闘士は(今のところ)出てきません。ですから、両者の類似といえば舞台となった時代が近いという以上のものはありません。

 歴史を題材にした作品には辛口と定評の私ですが(笑)、10年以上ぶりに見返してみてやはり良い作品だと思いました。もっというと、内容は歴史に忠実でも何でもないのですが、主だった設定は史実をもとにしてアレンジされています。たとえば、コモドゥスは晩年に暴政を布いたうえ、自ら闘技場で戦うことを好むようになったとされていますが、映画ではこれに加えて父帝マルクス・アウレリウスを殺したり、主人公と一騎打ちの末に殺される設定となっています。また、映画ではコモドゥスの唯一の姉であるルッシラは、史実では4人いるコモドゥスの姉の1人ルキッラがモデルと思われます。ルキッラは弟を暗殺して自分の夫を帝位に就けようとしますが、失敗して島流しにされます。対して、映画のルッシラは弟に亡夫との子供の命を脅かされ、追いつめられて暗殺計画に身を委ねるという設定のうえ、弟からの度を逸した近親愛に苦しめられる一面まで加えられています。

 主人公が架空の人物である以上、歴史映画とは認められませんが、歴史を扱う態度としては模範的ではないかなと思っています。架空の人物が公衆の面前で皇帝を殺害するという、堂々と史実に反する内容でありながら、多くの設定は史実からできるだけ拾おうとしている。創作された世界観と史実とのバランスが非常に絶妙であると思っています。世界観に納得がいかなかったり、「こんなの歴史上あり得ないんじゃない?」などと感じたら、自分で調べて自分の歴史観を組み立てれば良いわけです。

 史実をたたき台に脚色を加えることは、私は史実への敬意を損なうことではないと考えています。むしろ、知識も甘く見識も粗いくせに歴史を扱おうとする姿勢こそが、歴史に対する冒涜ではないでしょうか。

 さて、話が少々それてしまいましたが、そんなわけで『グラディエーター』は私のなかではかなり上位のオススメ歴史もの映画です。思えば、この頃はまだ映画館へよく足を延ばしてさまざまな映画を観に行ったものですが、最近ではさっぱり観たいと感じる映画がなくなりました。私の感性と好奇心が鈍っているのか、はたまた映画界全体の質が落ちているのか。どちらなんでしょうかねぇ。

 ちなみに、『テルマエ・ロマエ』のコミック初期が好きだったのも、作者の史実に対する知識や見識が深く、たいへん勉強になったからです。前述の史実と創作のバランスを際どく保ったままお笑い方面に突き進んだ漫画が、増田こうすけの『ギャグマンガ日和』だと思っています(笑)。

  



良い作品は整合性を超える

2010年05月25日 | 書評
  
 最近ふっとアニメ版「時をかける少女」が観たくなった。時間移動を扱う話は、どんなに練り直しても、どこかにタイムパラドックスが生じてしまう。タイムパラドックスについては、以前記事にしたことがある。「時かけ」も、この問題については突っ込みどころ満載である。むしろ時間移動を扱った物語のなかでは、かなり時間に関する設定がずさんな方ではないかとさえ思う。

 しかし、揚げ足取りの好きな自分ですらいちいちそんなことにはかまっていられないくらい、この作品には人を惹きつける魅力があると思う。結局良い作品というのは、多少の整合性の問題は軽く乗り越えてしまうものなのだろうと、自分は考えている。

 たとえば、夏目漱石の『こころ』で、「私」は「先生」から郵送されてきた遺書を汽車のなかで広げる。遺書は、四つ折に畳まれて郵便で送られてきた。ところが、その遺書は文庫本で100ページ以上の文量であり、折ったり郵便で送ったりするのは不自然であると、わざわざ脚注がつけてある。また、「私」はそのころ父親が死の床にあり、そんな肉親を放って、汽車に飛び乗り「先生」のもとへ向かうというのは考えられないという批判もある。

 しかし読めば分かることだが、遺書が折られているかいないか、「私」がそれを汽車のなかで読むか家で読むかは、話のテーマには何ら影響を与えない部分だ。もちろん指摘はいちいちごもっともだが、そのような整合性上のミスによって小説の価値が損なわれているかといえば、おそらくいえないだろう。『こころ』において「先生」の遺書が読者に与えるインパクトは、それくらい大きなものだと思う。どうしても気になって仕方がないというなら、「四つ折の郵便」を「分厚い小包」に、「汽車のなか」を「実家の一室」にでも脳内変換すれば済む話である。

 逆に、整合性にこだわろうとすれば、ミスが目立ってしまう結果にもなりかねない。そのような例として、ここでは浦沢直樹の『20世紀少年』を挙げたい。この作品では、本格科学スペクタクルとか何とか銘打たれているように、論理的設定が非常に細かく作り込まれている。そうした細部にわたる設定や展開は、実際にあり得る話だと読み手に思い込ませたいのではないかという意図さえ感じられる。

 ところが、かゆい所にばかり心血を注ぎすぎたのか、肝心なターニングポイントで割と説明もなく話が進められている。「なぜ友民党が連立内閣に入ると景気が回復するのか?」、「なぜ東京のロボットを退治すると国連で表彰されるのか?」、「なぜ顔も見せない新興宗教の教祖をわざわざローマ法王の方が出向いて訪ねるのか?」、そして「なぜローマ法王を助けると世界大統領になれるのか?」。これらはすべて話の核心を左右する出来事だが、その因果関係は全く触れられることなくスルーされている。物語の大筋にはさほど影響しない細かな設定が妙に凝っているだけに、こうした重要なポイントでのアラが目立ってしまって仕方がない。

 一応付け足しておくと、浦沢さんは日本を代表する優れた漫画家の1人だと思っている。『MONSTER』はとても面白かった。『MONSTER』の成功で少し偏ってしまったのかな、というのが僕の感想である。

 結局、長い話を作ろうと思ったら、人間1人の頭で完全な整合性をつけることは困難だということなのではないだろうか。その点は割り切ってしまって、自分が据えた主題にとにかく軸足を置き、多少枝葉の部分で齟齬が生じてもガンガン話を進めてしまった方が、メッセージ性のある力強い作品に仕上がるように思われる。逆に、あまり枝葉末節の設定にこだわっていると、主題の方がおろそかになったり肝心なところで繋がらなくなってしまう危険性が出てしまう。主題の追求と整合性の追求とは、相反するベクトルとまではいわなくとも、縦軸横軸の関係にあるといえるのではないだろうか。

  



書評:『博士の愛した数式』(小川洋子著)

2010年05月22日 | 書評
 
 何年か前に流行った小説なので、今頃?という感もありますが、小川洋子さんの『博士の愛した数式』を読みました。ハードカバーは大きくて高くてかさばるので、小説は基本的にどんなに流行っても文庫になるまで買わないのです。たしか映画化されていたと思うのですが、何でそんなに売れたんだろうと思って調べたら、「全国書店員が選んだいちばん! 売りたい本」のキャッチフレーズで有名な本屋大賞の第一回受賞作品だったんですね。

 あらすじは割と知られていると思いますのでごく簡単に。事故により記憶が80分しかもたなくなってしまった「博士」と、彼の世話を依頼された家政婦の「私」、そして「博士」に「ルート」と名付けられた「私」の息子。80分前以前の記憶が自動的に消去される博士にとって、「私」やルートは毎日初対面ということになるが、「私」やルートの独自のルールや気遣いのなかで、3人の関係は豊かで温かいものになっていく。それまで数々の家政婦を困らせてきた博士だが、「私」やルートとの関係はその後博士が亡くなるまで続くことになる。

 この小説の見どころとしてまとめるならば、毎回初対面であるはずの博士との間に、少しずつ確実に紡がれていく愛情と優しさの関係とでも言いましょうか。博士は、子供は母親のもとにあるべきという信条をもっていて、「私」からすれば職場である博士の自室に学校帰りのルートを招かせます。「私」とルートも、博士の優しさに応えるべく、手さぐりながらも博士との時間を大切に過ごそうと試みる。3者の、お互いに真心に満ちた物語は、読者の心を暖め、感動を与えるものだと思います。

 これが、もし小説ではなくテレビドラマなどであれば、以上の賛辞でめでたく終えることができます。ただ、当作品が一般的には純文学に分類されているようなので、そうするといくらか批判すべき点が出てきてしまうように思います。以下、それらを4つの点にまとめて挙げていきます。

 第一に、あまりに綺麗に話が完結しているために、一言でいえば「良かった」という感想に尽きてしまう点です。純文学とは、人間の本質に対する示唆や問いかけを提起するものであると私は考えています。夏目漱石にしろ、太宰治にしろ、芥川龍之介にしろ、文学の巨人たちは皆、愛や死や貧困など人間の不条理な面が露わとなるテーマを通じて、人間の本質に深く切り込もうとしてきました。しかるに、せっかく「記憶が80分しかもたない数学者」という非日常の題材をもってきたにもかかわらず、さして大きな問題もターニングポイントもなく、割とすんなりと話が最後まで進んでしまいます。「おっ、何か起こりそうだぞ」という箇所がいくつかあったのですが、結局何も起こらないで終わるため、純文学といわれるとなんだか消化不良のような感触を覚えてしまいました。

 第二に、設定にかなり凝っている割には、本筋に余り関係していないという点です。たとえば、タイトルにもなっているとおり博士は数学者ですが、別に博士が数学者である必要性は特段感じられません。結局、「記憶が80分しかもたない」ことが博士に求められる要素の99%ぐらいを占めているので、それさえ押さえられていれば、法学者でも経済学者でも、もっといってしまえば職業不詳だとしても、物語の本筋にはそれほど影響がないように思われます。また、「私」がシングルマザーであるということも、話の中で時折触れられる重要な要素です。しかし、これも実際に3人の関係にどのように影響しているかというと、さほど突っ込まれてはいないように感じました。読み物ではなく純文学というのであれば、追求すべき問題に対してサブなものはなるべく排するべきではないかと思います。たとえば漱石の『門』の終盤で、主人公が突然鎌倉の禅寺に修養に出かけてしまったことについて、話の本筋上必要だったのかという批判があります。鎌倉での話はそれなりに面白いのですが、小説のテーマからすれば寄り道であり欠点であるとされるのです。

 第三に、二点目と矛盾するように聞こえるかもしれませんが、情報不足な部分がいくつか見られました。たとえば、障害を抱えた博士は義姉(未亡人)の家の一角に寄寓しているのですが、この未亡人と博士が深い関係にあったであろうことが作中でほのめかされています。私を含め、読者はおそらく2人の関係が今後の物語に影響を及ぼすのだろうと直感したと思いますが、結局最後まで匂わせるだけのままで終わります。二点目で、余り必要のない情報をこってり用意していると指摘したのに対して、こちらでは本筋に大きく影響するであろう情報を読者に与えていないということになります。

 第四に、結局材料にこだわりすぎて作品形成がおろそかになっている点です。この点は、別にこの小説に限ったことではなく、世間全体に最近蔓延している問題のように思います。すなわち、誰もまだ手を付けていない題材や手法を自分が使ったという事実で満足してしまい、できあがってみればありきたり、という現象です。私はこれを勝手に「材料主義」と名付けているのですが、とりわけマンガやドラマなどでよく見受けられます。マイナーなスポーツや職業をテーマとしたり、そこまで有名でないクラシックやジャズの名曲を作中で挙げて話のネタにしたり。「とにかく誰もまだ手を付けてないからやる」という動機からスタートする材料主義は、当座は面白いかもしれませんが、落ち着いて考えてみると大して中身がないという場合が多いです。この小説も、「記憶が数十分しかもたない」「数学者」という材料がはじめにありきで作られたような気がしてなりません。またこの小説では、数学と並行して阪神タイガースが重要なファクターとしてはたらいています。両者はある数字を介して関連付けられているのですが、小川さんはその関連性を見つけたことで小躍りし、そして踊らされてしまっているように思えてなりません。数学もタイガースも、小説の根幹からは離れたところで面白さと華やかさを添えているに過ぎません。

 以上4点、タイトルから否定するような勝手な批判を連ねさせていただきましたが、これらはすべて、あくまで純文学として分類したときに生じる問題をまとめたものです。一般の小説としてみるならば、以上に挙げた批判はこの小説の面白さを少しも減じるものではありません。素直に読めば、本当にいい小説、面白い作品だと思います。

 むしろ中高生ぐらいのころに読むと、すんなりと自分の文脈に置き換えられ、重要な示唆が得られるのではないかな、と読み終えて感じました。

  



三浦綾子『塩狩峠』と正しさの追求

2010年05月09日 | 書評
  
 6日7日と休みをとった方は長い長いGWとなりましが、それも今日で終わりです。今年は桜の時期が長く、私は帰郷していた仙台で思いがけず花見ができました。

 さて、先日、三浦綾子の『塩狩峠』を読了しました。三浦綾子さんの作品は、そのほとんどがキリスト教に関連したテーマを扱っていますが、この『塩狩峠』はその代表作のひとつということです。小説なり映画なりを紹介するとき、所謂「ネタばれ」を全く気にしない私は、いつもどこまで内容に触れてよいか悩みます。なるべく、巻末の紹介文の枠を出ないように話を進めたいと思います。

 この小説は、明治四十二年に北海道の塩狩峠で実際に起こった鉄道事故を題材としています。急坂を運行中、連結が外れて暴走をはじめた客車を止めるために、1人のキリスト教徒が自ら身を投げ出して車輪の下敷きとなったというものです。ただ、事故そのものは事実としてあるのですが、この信者本人に関する資料がほとんどなく、彼の死についても覚悟の自己犠牲ではなく単なる過失による事故であったとする見解もあるようで、詳細は明らかではありあません。ですから、小説は主人公の幼少期からはじまっていますが、この信者本人の生涯をトレースしたというものではなく、あくまで塩狩峠の事件を題材とし、主人公に三浦さんの取り組んだ信仰についての問題を背負わせたものといえます。
 
 面白いのは、両親ともキリスト教徒であるにもかかわらず、主人公が当初はキリスト教に懐疑的なことです。つまり、最初は当時の一般的な日本人のラインからスタートしているのです。キリスト教徒の両親や、伝統的な仏教徒の祖母、世俗的な従兄弟や幼馴染などに囲まれて悩む内に、主人公は生き方の寄る辺としての信仰に目覚めていきます。

 ただしその反面、長い苦悩のプロセスを経ている割には直接の入信の経緯が少々突飛過ぎるように感じました。道端で布教する伝道師の説法を聞いて、感激の余りそのまま受洗してしまうというものです。その日その場の伝道師の言葉に共鳴して、衝動買いならぬ衝動入信とでもいうようなスピード決断をするのです。しかし、別の見方をすれば、この伝道師と主人公のやり取りにこそ、三浦さんの重要なメッセージがこめられているのだと考えられます。

 この伝道師の台詞のなかに、大きく心に留まったものがありました。直接の部分だけ簡単に引用すると、次のとおりです。「これはぼくも試みたことなんだが、君もやってみないかね。聖書の中のどれでもいい、ひとつ徹底的に実行してみませんか。徹底的にだよ、君。そうするとね、あるべき人間の姿に、いかに自分が遠いものであるかを知るんじゃないのかな。」

 この部分を読んだとき、ふっと茶人千利休の「利休七則」が思い出されました。「利休七則」とは、茶道において最も心すべきことはなにかと問うた人物に利休が答えたものです。いわく、「茶は服のよきように点て、炭は湯の沸くように置き、花は野の花のように活け、さて夏は涼しく冬は暖かに、降らずとも傘の用意、相客に心せよ、刻限は早目に」というものです。問うた人物が「そのくらいのことは、私でも存じております」と返したところ、利休は「もし1つでもこのようにできたら、私はあなたの弟子になりましょう」と答えたといわれます。「七則」に挙げられているのは、どれも当たり前にすべきことです。当たり前ということは、誰が見ても正しいことと言い換えることができるでしょう。しかし、実際にこれらのことを徹底的に追求する、あるいは遣り通すとなると、一筋縄ではいきません。「七則」は、客を招いてお茶を飲むという日常の一幕を昇華させるという、茶道の基本の心得を示したものといえます。

 思えば、正しい道の追求ということに関しては、仏教にも「八正道」という教えがあると聞いたことがあります。これについては余り詳しくはないので間違っているかもしれませんが、釈迦は修行のあり方について、苦楽などの両極端に偏らない「中道」を取るべきだと説き、さらに「中道」とはすなわち「八正道」であると説いたとされます。「八正道」とは、正しく考え、正しく語るなど、日常における中道を実行する8つの道筋を指すものです。仏教においても、日常における正しさの追求が重要な目的であるといえると思われます(もっとも、茶道は仏教の一派である禅の思想に大きく拠っていますが)。

 こうしてみると、正しさの徹底的な追求とその困難さという点で、先の伝道師の台詞と「七則」の訓えや仏教の八正道は一致しています。聖書も仏経典も武道や茶道などの心得も、そのなかの1つでも完遂することはとても難しいでしょう。どんな聖人であっても、人間である限りは完全に合理的には生きられません。もし聖書を体現したような人がいたとすれば、もはや人間離れしていて私などはむしろ気持ち悪く感じるでしょう。聖書というのは、結局実行できないことを見こした上で、人として正しく生きる指標を書き連ねたものなのではないかと思います。

 人は完全に正しくは生きられないのであり、そのことを指して原罪とされる。天国に行けるかどうかはともかく、人は正しくない行いについて神なる完全な存在の前で常に悔い改め、少しでも正しく生きようと心がける。そのための教材となるのが聖書である。このように考えると、キリスト教も意外と身近なものなのではないかと、『塩狩峠』を読んで感じました。

 宗教というと、死後の世界とか、神や仏とか、奇跡や見えざる力といったものが連想されがちです。しかし、そういった超常的な見方から離れ、人生を正しく歩むためのガイドとして宗教を捉えると、神や霊やあの世を信じるとか信じないとか関係なく、非常に有用な示唆を得られるような気がします。その意味では、キリスト教も仏教も、根底では目的を同じくしているのではないでしょうか。『塩狩峠』は、たとえばジイドの『狭き門』のような宗教の内側での苦悩ではなく、宗教との関わりに対する外側からの苦悩を通じて、人の生き方について考えさせてくれる本だったと思います。

 ちなみに、私も宗教とは関係なく、自分が正しいと考えることを1つ徹底的に実行してやろうと思っています。難しいのは、その正しいことが守られているかどうかの判定は自分で下さなければならないことです。一応実行中ですが、それが何かはちょっと言えません。言えば必ず、禁煙宣言をしたお父さんのごとく監視されてしまうでしょうから(笑)。

  



読書の秋:漫画家による表紙絵の文学小説について

2008年09月25日 | 書評
   
 日も短くまた涼しくなり、スポーツの秋というには天候がすぐれませんが、読書の秋となってきました。私も先日小説など求めて書店に行ったのですが、店頭に並ぶ文庫新刊に気になる本を見つけました。

 人間失格の表紙を『DEATH NOTE』で知られる漫画家の小畑健が描いたことが話題になったのは知っていましたが、こうした漫画家によって表紙が描かれた著名小説がいつの間にやら結構出ていたようなのです。

 キャッチーな絵で呼び込まないと、日本の代表的な小説すら手に取られないというのも悲しい話ですが、より問題に思えたのは、当の表紙絵がどう見ても内容とマッチしていないことです。

 荒木飛呂彦が描いた『伊豆の踊り子』の表紙絵などは、はっきりいってあまりのリアリティーのなさに「逆にありかな」って思わされてしまいますが、小畑健の絵はそれっぽく見えるだけにより問題な気がします。


ここまで来ると内容との関連とかどーでも良くなります。


 たとえば太宰治の『人間失格』。描かれているのは、確かに文中でもそう書かれている、学生服で椅子にかけるイケメンなのですが、この小説のたとえ冒頭部だけでもちゃんと読んでいればこのような表情や様相、姿勢にはならないように思います。



 さらにひどいのは夏目漱石の『こころ』です。いったい何をどう読んだら髑髏が出てくるんだろうと思います。これでは初めて読む読者にあらぬ誤解を与えかねないし、表紙に惹かれて手に取った人は内容との違いにがっかりすること必至です。



 というよりも、小畑健ははっきり言って両方とも全く読んでいないのではないかという疑念が抱かれて仕方ありません。もしくはあらすじや冒頭部だけ流し読みして描いたのではないでしょうか。

 結局のところ、人気漫画家の表紙絵で読者をキャッチするという試みは斬新で価値のあることだと思いますが、肝心の画家が内容を知らないでは話になりません。あるいはこれらの絵にGOサインを出した担当者の責任かもしれませんが、いずれにせよそれほど表紙絵を重要視するのであれば、きちんと内容を反映させた上で実行に移していただきたいものです。

 ちなみに、『こころ』は髑髏などとは一切関係ありませんし、『人間失格』は冷笑を浮かべる夜神月のような学生の話でもありません。どちらも人間の本質を露わに描こうとした純文学であり華やかさとは無縁の小説です。まだ読んだことのない方は是非この秋を利用して読まれることをお勧めします。