塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

地名探訪:「品川」

2011年11月27日 | 地名探訪
 
 大阪ダブル選は維新の会の勝利だそうですね。まぁ、予想はしていましたが、やはり大阪ですね。これからどうなっていくのか見ものです。ただ、どうしても腑に落ちないのは、知事から市長に転向するとなんで都構想が実現できるのでしょうか?何度聞いても都構想のメリットとプロセスが見えてこないのは私だけでしょうか^^;

 さて、久々のこのシリーズですが、今回は品川を取り上げます。といっても、地名の語源的な話ではなく、品川の歴史的な経緯をちょろちょろっと雑談交じりでご紹介するだけです。品川は目黒川の河口に開けた町ですが、古くは目黒川そのものを品川と呼んでいたそうで、品川という言葉が相当に古いものであることが分かります。

 今日、品川といえば近年新幹線の駅整備やベイエリアの開発などで副都心化が急速に進んでいる地区です。建設計画が進みつつあるリニアモーターカーの始発駅にも挙げられており、今後ますますの発展が見込まれます。

 目を過去に転じてみると、江戸時代には品川は東海道の最初の宿場町として栄えていました。時代劇でも、江戸を発つ旅人を見送るシーンで品川宿はよく登場します。また、甲州街道最初の宿場である内藤新宿(現在の新宿)と並んで、色町としても賑っていました。

 ですが、古来品川は、宿場町としてよりも港町として発展した町でした。律令時代くらいまでは、江戸湾の内奥はまだ水がはけておらず、歩いて進むのが困難な泥湿地帯が広がっていました。そのため、古代の東海道は相模国あたりから対岸の房総半島へと船で渡っていました。菅原孝標女の『更級日記』の冒頭で、幼少期を過ごした上総国について「あづま路の道の果てよりも なほ奥つ方」とあるのは、陸路の先にさらに船旅を要していくところという意味合いもあったものと思います。そのような水に覆われた江戸湾岸において、目黒川と接続する品川湊は、荒川と接続する江戸湊と並んで中世の重要な港湾都市となりました。

 現在では目黒川もとても水運の川とは呼べなくなっているため、河口の港町といってもあまりピンとこないでしょう。そもそも、今日一般的にいう品川と当時の品川は、少々異なる場所にありました。JRや京浜急行のターミナル駅ある品川駅は、実は品川区ではなく港区にあります。そして、箱根駅伝でおなじみの八ツ山橋を渡った南側から、品川宿ははじまります。橋を渡ってすぐの一帯を北品川、目黒川を挟んだ南側を南品川といいます。北品川には京急の北品川駅があるため、京急に乗ると品川駅の南に北品川駅があるという、なんともおかしなことになっています。私はあまり京急は利用しないのですが、京急沿線の方々はとみに疑問に感じるんじゃないかなと思います。

 南品川の南西隅に、JRと東急の大井町駅があります。つまり大井町の北端にあるということで、こちらも際どい位置にある駅なのですが、その駅の北西にJRの車両センターとなっている広町という地区があります。ここには、戦国の昔、品川氏真という武家が住んでいました。この品川氏真、もとの名を今川氏真といいます。知ってる人は知っているでしょう、桶狭間の戦いで討ち死にした今川義元の嫡男です。義元の死後、家督を継いだものの徳川家康と武田信玄の挟み撃ちにあった氏真は、領地を追われて縁戚だった北条氏を頼ります。北条氏としても、縁戚でかつ由緒正しい元大名の氏真を粗略に扱う訳にはいかず、品川に屋敷と領地を与えました。江戸幕府が成立すると、吉良上野介義央などと同じ高家旗本となり、嫡流のみが今川氏を、それ以外は品川氏を称するようになりました。品川と歴史のつながりを示す、ひとつの小話です。

 
広町のJR車両センター。


 品川には、近代化の著しい品川駅周辺と、古くからの歴史を持つ旧品川宿周辺という2つの顔(というよりエリア)があります。もちろん、一般的に目を引くのは品川駅周辺の目新しいビルディング群ですが、一歩目をそらすと、そこには東海道のきらびやかな歴史を今に伝える風景があります。お気が向いたら、ぜひこちらのエリアも散策されてみてはいかがでしょうか。

  



地名探訪:「日暮里」

2011年06月24日 | 地名探訪

 一昨日は夏至だったそうですね。その上、関東は快晴も快晴で、私のような穴熊族でさえ日焼けして痛くなってしまいました。

 さて、今回は東京上野の北にある日暮里を取り上げます。日暮里と書いて「にっぽり」とは、考えれば考えるほど不思議な地名です。日暮里駅はJRや京成線が乗り入れ、そして2008年に開通したばかりの日暮里・舎人ライナー(先日乗って来ました)の発着駅でもあり、下町の重要なターミナル駅となっています。

 
日暮里・舎人ライナーからの景色


 日暮里という地名が成立したのは江戸時代中期といわれています。それまでは「新堀(にいほり)」と呼ばれていました。JR線に乗って上野から北に向かうと、左手に王子の飛鳥山まで延々と丘陵が続きます。荒川が形成した河岸段丘ですが、日暮里はその一角にあたります。江戸時代以前の江戸湾周辺の低地は河川の流路変更が激しく、現在でこそ日暮里と荒川や隅田川とは距離がありますが、以前は水路を建設すれば容易に江戸湾に通じることができたのでしょう。新堀とは、荒川や江戸湾を通じた水運の河港であった可能性を示していると考えられます。事実、荒川周辺には新堀という地名がいくつか散見されます。

 江戸時代中期になると、庶民の間で娯楽や行楽に対する関心が高まりました。現在の日暮里駅西側から西日暮里駅北西あたりにかけての崖上の森は、虫の音聞きの名所として庶民に親しまれるようになりました。そして、日の暮れるのも忘れて景色やピクニックを楽しめる場所として、いつしか新堀に「日暮里」の字が充てられるようになりました。西日暮里駅の北西には現在開成高校がありますが、江戸時代には久保田藩佐竹家の抱屋敷(別邸)がありました。お殿様も、風雅な里山の景色を楽しんだのでしょう。

 開成高校の南側一帯は、またの名を道灌山といいます。戦国時代の武将太田道灌がを築いたところと伝わり、かつては船で兵糧を運ぶ船が目印にしたといわれる「道灌船繋の松」という名松があったそうです。この松は残念ながら残っていないようです。また、道灌の城砦があったかどうかも、確かではありません。一説には、道灌山の名は別の「道閑」という人物が屋敷を構えていたからともいわれています。道灌山は、今なお木立や神社、寺に囲まれた閑かな森の公園です。上野より人も少なく、散策にはもってこいでしょう。

 
道灌山公園のようす


  



地名探訪:仙台市と区部

2011年06月19日 | 地名探訪
   
 今日で高速道路休日1000円が終了するそうで、今週末は普段にまして渋滞が酷かったようですね。復興支援の財源確保のためということですが、よく考えるとなぜ復興財源を高速の通行料から徴収しなければならないのか、まったく謎ですし説明もされてないように思います。その前にバラマキの子供手当てを止めれば…と思うのですが、もはや延命のことしか頭にない菅総理に何を言っても無駄なのでしょうね。「顔を見たくないのなら法案を通しれくれと、しばらくはこの策でいきます」とニヤケ顔で語る菅総理からは、もはや醜悪さしか感じ取れません。被災者の前で同じ顔をして、同じことが言えるんですかね。そんな総理の隣で同じようにニヤけて総理をヨイショしていたソフトバンクの孫正義氏の顔も忘れません。100億円の善意(95%くらいはそれ以上の見返りがあるとの打算なのでしょうが)も綺麗に帳消しにできるくらいに被災地をコケにした言動だと思います。

 さて、本日の愚痴はこのくらいにして、今回は仙台とその区部について取り上げたいと思います。先の震災では仙台市のうち、若林区と宮城野区が甚大な津波被害を受けました。といっても、よほど仙台に行き慣れていなければ、若林区や宮城野区がどこにあるのか知っている人は少ないのではないでしょうか。仙台市は非常に広大な市で、東は海岸から西は奥羽山脈の県境まで、つまり宮城県の東端から西端まで市域に含まれます。奥羽山脈を境に西隣は山形市で、県庁所在地が隣り合っているのは、ひと昔前までは仙台-山形と京都-大津だけだったそうです(平成の大合併により福岡-佐賀も隣り合わせになりました)。

 仙台の地名の由来については、わりと知られているのではないかと思います。伊達政宗が仙台に居城を築いた際、すでにあった「千代城(せんだいじょう)」という古城をベースにしました。政宗は、自分が築き直した城と町に新しく「仙台」の字を充てました。これは、「仙臺初見五城楼」で始まる中国唐代の漢詩に由来するといわれています。この詩にいう「仙臺(台の旧字)」とは、仙人たちの集うところ(山あるいは宮殿)という意味だそうです。多くの大名が(会津)黒川を(会津)若松としたり、深志を松本としたりと吉祥の字を使った似たり寄ったりの地名を付けるなか、元の名と読みは同じで字のみを雅称にかえるというあたりに政宗公の高度なセンスと遊び心がうかがえます。

 さて、仙台市が政令指定都市となったとき、区名に東西南北といった安直な方角などを用いないという方針があったそうです。その結果、現在仙台市には青葉区、太白区、若林区、宮城野区、泉区という5つの区ができました。位置関係としては、だいたい仙台駅を中心として北西に青葉区、南西に太白区、北東に宮城野区、南東に若林区、そして一番北に泉区といった感じでしょうか。ですので、市東部の海岸に面した宮城野区と若林区が津波の被害を受けることになりました。以下、それぞれの区について簡単に紹介します。

○青葉区
 県庁・市役所や一番町・大町商店街、仙台城址など仙台市の主要機関が集まっている中心的な区です。区名の由来は、いわずもがなと思いますが青葉城や青葉山から。区自体は東西に非常に細長く、西端は山形県との県境になっています。広瀬川の中上流域を包摂しており、上流に遡るにつれてのどかな田園風景やニッカウヰスキーの工場もある清らかな渓谷、日本最初の露天風呂が作られたとされる作並温泉などがあります。

 
仙台城址から見る仙台市街


○太白区
 青葉区の南にあり、仙台の副都心計画が進む長町駅があります。長町は奥州街道の仙台の手前の宿場ですが、副都心計画によって古くからの町の面影は消滅しつつあります。この計画は、JR長町駅東側にあった広大な操車場跡地の再開発を基盤とするもので、東京汐留の地方版といったところでしょうか。
 区名の由来は、区内にある太白山という山です。標高はさほど高くないのですが、綺麗な円錐形の山です。とにかく高さより形で目立つ山で、新幹線で南から仙台に向かう際、駅手前のアナウンスが流れるあたりで左手にアポロチョコのように尖ってみえる山がそれです。上り列車の場合は仙台駅出発から間もなく右手に見えます。東北自動車道を南から北上したときにも、正面に見えます。

○若林区
 仙台市の南東に位置し、仙台市の区で唯一鉄道の地上駅がありません(地下鉄駅は2つあります)。区の東部および南部には広大で平坦な田園風景が広がり、仙台市の穀倉地帯となっています。裏を返せば、それがために津波を止めるものがなく、壊滅的な被害を受けてしまったともいえます。また、区北部には中央卸売市場があり、卸業や物流の中心地でもあります。
 区名の由来は、政宗が築いた若林城から。若林城は、晩年の政宗が青葉山の崖上の仙台城から移り住んだいわゆる隠居城です。現在城跡は宮城刑務所として利用されています。
 
 
若林城址。塀の向こうは宮城刑務所。


○宮城野区
 若林区の北、青葉区の東に位置しています。楽天イーグルスの本拠地クリネックススタジアム宮城や、仙台の受験の神様榴ヶ岡(つつじがおか)天満宮などがあります。また、宮城野区内にあたる仙台駅東口は、近年再開発により訪れるたびに風景が変わっていきます。区東部はやはり穀倉地帯で、甚大な津波被害を受けました。
 区名の由来は、仙台平野の原野部を指す「宮城野」から。宮城野というのは宮城野区域のみを指すものではありませんが、一般的には区内の榴ヶ岡周辺を「宮城野」あるいは「宮城野原」と呼びならわしているようです。実際、宮城野は地名という以上に古来歌枕として知られているもので、東北になど来たこともないような都人によって数多くの歌に詠み込まれています。
 
○泉区
 もともとは泉市でしたが、編入によりそのまま泉区となりました。仙台市街とは北山という低い丘陵地帯を隔てた北側に位置し、七北田川(ななきたがわ)流域の谷筋に発展したところです。ちなみに、この北山越えの道路は仙台随一の渋滞の名所として知られ、現在急ピッチで新たな地下型幹線道路が建設されています。ベガルタ仙台の本拠地ユアテックススタジアム仙台があるほかは、完全な仙台のベッドタウンです。このベッドタウン化は高度成長期に黒松団地が造られたのを皮切りに、今日まで続く筋金入りのものです。
 区名の由来は、区北西端にそびえる泉ヶ岳から。泉ヶ岳は泉区内や青葉区西部から広く望める雄大な山で、冬から春にかけては頂部が雪化粧をして非常に美しい山です。逆に、泉ヶ岳からは太平洋や仙台市街の絶景が望めます。市街から車ですぐに行けますし、スキー場もあるため、ドライブやレジャーによく利用されています。


初秋の泉ヶ岳


 さて、以上仙台市の5つの区について手短に紹介してみました。ところが近年、仙台市に第6の区の計画が取りざたされています。青葉区の西部、広瀬川の上流域では、「愛子」と書いて「あやし」と呼ぶ地域を中心にやはりベッドタウン化が進み、人口が急上昇しています。そこで、一帯を新しい区として分離するという話が持ち上がっているそうです。新区名については、皇室をはばかりでもしたのか「愛子区」ではなく「広瀬区」が第一候補となっているそうです。とはいっても、具体化には至っておらず、あくまで「そういう話も盛り上がってきている」という段階のようですが。


ベッドタウン化の進む愛子地区


 いかがでしょうか。復興にかかわるとかかわらずと、皆様ぜひ仙台にお越しいただければと思います。ただ、仙台城址へ行って、広瀬川を眺めて、一番町を歩いて、牛タンでも食べて、夜は国分町で遊んでというお決まりの観光コースだけだと青葉区だけで完結してしまいます(笑)。他の区にもそれなりに魅力がありますので、仙台のちょっとマイナーなところも行ってみたいという方は、ご連絡いただければさまざまな見どころをご紹介させていただきます^^

  



地名探訪:「高知」

2011年06月08日 | 地名探訪

久々の更新となってしまいました。どうも、震災以来大きな記事ばかり書こうとするので、滞ってしまうようです。そこで今回は、ひさかたぶりに地名シリーズで一息つこうかと思っています。本日とりあげるのは、昨年の大河ドラマの舞台となった「高知」です。

 高知の地名の由来は、江戸時代に土佐藩主となった山内氏の築いた高知城にあります。それ以前は、高知城のある丘を大高坂山(おおたかさやま)と呼び、かなり古い時代から大高坂氏という豪族が住んでいました。南北朝時代には、土佐での南北朝勢力間の激戦がここで行われました。

 さて、関ヶ原の合戦による論功で土佐一国の領主となった山内一豊は、大高坂山に新しい城を築きます。同時に、土地の高僧に頼んで城に新しい名前を付けてもらいました。新しい領主が城や町に新しい名前を付けるのは当時のブームでした。大高坂城は、鏡川と江ノ口川という2つの川に挟まれていたことから、「河中山城(こうちやまじょう)」と改名されました。

 しっかり者の奥さんと、自身のゴマスリで一国の主にまで登りつめた一豊ですが、彼の生存中はまだずっと「河中山城」のままでした。まして、麓の町がどう呼ばれていたのかは定かではありません。そもそも、城も城下町もまだまだ建設中でしたから、「河中山城下」という以外にとりたてて呼び名がなかったのかもしれません。

 その後、「河中」の字のごとく川に挟まれた城と町は、相次ぐ水害に悩まされました。一豊死後に跡を継いだ甥の忠義は、そんな「河中」の字と嫌って、再び別の土地の高僧に字を改めるように諮りました。その助言によって、「河中山」の字は読みは同じで「高智山」と改められました。そして、「高智山城」がいつしか「高知城」となり、城下町も「高知」と呼ばれるようになりました。つまり、高知という地名に落ち着いたのはかなり新しいことといえるのです。

 ところで、「大高坂」を「おおたかさ」と読むのも難しいですが、高知県は実は難読地名や難読苗字の宝庫ともいえるところです。たとえば公文式考案者の公文公氏の公文(くもん)や、元セガ社長の入交昭一郎氏の入交(いりまじり)、戦国武将として名高い長宗我部氏(ちょうそかべ)や香宗我部氏(こうそかべ)などが高知特有の苗字です。

 そこで、オマケとして高知難読地名クイズで〆たいと思います。みなさん、いくつ読めますか?

 1、五百蔵
 2、介良
 3、薊野
 4、別役
 5、戸波
 6、尾立
 7、波介
 ・・・・挙げたらきりがないのでこの辺にしておきます^^; 答えは下の方に。





















 1、いおろい
 2、けら
 3、あぞうの
 4、べっちゃく
 5、へわ
 6、ひじ
 7、はげ

 いかがでしょうか。なんでそうなったの?というものもあれば、単にちょっと訛りが入っているもの、あるいは特定の漢字に特定の読みが充てられているものなどパターンがいくつかあるようですね。高知はとても良い所です。ブームもひとまず去ったことですし、今ならゆっくり楽しめるのではないでしょうか。

  



地名探訪:「諏訪」

2010年12月15日 | 地名探訪
 最近、山手線のドア口のモニターでシェーバーの宣伝を何種類か見かけます。でも、どれもモデルがジャニーズとかのスッキリ系イケメンなので、そんなもともと髭の薄そうな人がいくら剃り味をアピールしたって、僕のように本当に髭剃りに四苦八苦している人には何の参考にもなりません。ああいうのは、「この人が推すなら大丈夫だろう」と思えるような逞しいあごと髭をもつ役者さんがやった方が宣伝効果は高いように思います。

 さて、今回は「諏訪」についてみてみます。特殊な字面ですが、地名や神社として全国いたるところで目にするので、これを「すわ」と読むのは難しくないでしょう。しかし、「諏訪」の起源を探るとなると、これはかなり大変です。何しろ諏訪の歴史は神代の時代にまで遡るからです。

 長野県諏訪市(および下諏訪町&茅野市)の諏訪大社は、その起源がよくわからないほど古いものです。古事記によれば、その祭神は建御名方神(タケミナカタ)とされています。建御名方神は出雲の大国主命の長男とされ、建御雷神(タケミカヅチ)との力比べに敗れて諏訪地方へ逃れてきたと伝えられています。建御名方神は、建御雷神に諏訪から出ないことを条件に命を助けられたとされ、その代わりに建御名方神が諏訪に独自の王国を築いたのが諏訪大社のおこりとされています。

 しかし、実際には建御名方神以前すでに諏訪には地元の信仰が別に存在していたといわれ、有名な御柱祭などはそうした古代土着信仰に基づくものであるといわれています。そうなると、「スワ」という地名もヤマト神話以前の古代言語に由来するとみるべきとなり、その意味を推測することは非常に困難となります。

 一般的に、建御名方神は、敗れたとはいえ力自慢の神であったことから戦や勝負事の神とされています。それは、戦国時代に武田氏が諏訪大社にたびたび必勝祈願をしていたことなどにも起因するのでしょう。しかし、建御名方神は、古代信仰においては風神や水神、あるいは鍛冶の神であったとするさまざまな説があります。個人的には、諏訪から蓼科へ向かう大門街道沿いで鉄鉱石を産出していたと聞いたことがあるので、産鉄民族の信仰対象であったというのが説得力があるようには思います。

 このように、諏訪地方は日本列島の中でもとかく古い歴史をもっているため、言語体系や地名についてもかなり独特であるといわれています。難読地名といえば、同じく古代王朝時代に歴史を遡る京都・奈良が有名ですが、実は諏訪も負けていません。そもそも、一般には「諏訪」の読みは「ス」にアクセントを置いて「ワ」と尻下がりに発音しますが、本場の諏訪地方では「ワ」にアクセントを置いて「ス」と尻上がりに発音します。「諏訪湖」の場合も、地元の発音ではやはり「ワ」を強く「スコ」と読みます。以下、諏訪地方の難読地名をいくつか列挙します。答えは、そのあとでアクセントの位置と一緒にご紹介します。さて、いくつ読めるでしょう?

 1、「神宮寺」
 2、「小和田」
 3、「大和」
 4、「古田」




 ・
 ・・
 ・・・
 ・・・・
 ・・・・・
 ・・・・・・



 <こたえ>
 1、「じじ」
 2、「こた」
 3、「わ」
 4、「った」
 です。読めましたか?漢字は地名や名字でよく見かけるものだけに、「何でわざわざそう読むんだ」とイラッとくるものが多いかと思います。また、アクセントが中間か頭にあるため、後ろにアクセントのくる関西弁が柔らかく聞こえるのに対し、諏訪方言は非常に威圧的に響きます。初めて諏訪を訪れた人が聞くと、何でいきなり怒ってるんだろうと感じるかもしれません。